自殺について

周知のように日本は自殺が多い国であり、1998年以来年間3万人を超え続けている。自殺が社会現象となる原因は、エミール・デュルケームの『自殺論』以来、経済的な好況や不況が自殺の増減に必ずしも影響しないことは散々指摘されてきたにも関わらず、どうも相変わらず「景気のせい」という解釈が大手を振ってまかり通っている。

自殺と景気の直接的な因果関係が弱いことは、不況は1990年代前半に既にはじまっているにも関わらず、自殺の増大は1990年代末から起こっているからもわかる。むしろ、それまで培ってきた「生きるための方法」が急激に変わってしまったことが、自殺の背景にあると考えたほうが適切である。自殺が急増したのは、「構造改革」という名の一連の社会改革が大規模に行なわれはじめ、また政府の積極的な推進の下に、職場や学校でパソコンの技能が必須のものとなりはじめた頃である。なぜかこのパソコンによる職場環境の変化はあまり重視されていないが、これはパソコンで代用できる「平凡な仕事」をコツコツこなしてきた人々にとって、社会の居場所がいっぺんになくなるような大きな事件であったはずである。農村部での自殺が多いのも、農村のほうが社会の急激な変化に対して不適応な人々が多いからと理解することができる。例えば、長年田舎でのんびりと小さな酒屋を営んで暮らしていた人が、コンビニなどの進出で酒が売れなくなるという事態に直面すれば、「商売をやり直そう」と奮起するよりも、「もう他に行く場所がない・・・」とやはり感じてしまうだろう。意外かもしれないが、高度成長が続く中国でも年間20万人強の自殺が起こる「自殺大国」であり、しかもその大部分は農村部で起こっている。この10年の間に中国に行ったことのある人は、一度はその急激な変化に圧倒された経験があると思うが、特に都市に比べて農村が完全に「時代から取り残されている」ような印象を受けただろう。実際に農村で生活する人々も、「時代から取り残されている」ことを肌で感じているはずである。

最近20代から30代にかけての「団塊ジュニア」世代の自殺率が、過去の若年世代に比べても増加している理由はここからも理解できる。というのはこの世代は、学生時代までは比較的裕福で安定した生活を送っていたにも関わらず、就職難に直面したり、また就職しても賃金がほとんど上がらず、大した社内訓練のないまま性急に業績を求められる不安定な職場という現実に直面しなければならなかったからである。それまで大きな苦労や困難を経験する場に立ち会う機会すら少なかった彼らがこうした困難に直面し、「俺は生きる資格がないのでは」と思い込みやすいことは理解できることである。「団塊ジュニア」世代は、学校文化で優秀だった人間が必ずしも前の世代のように社会で高い地位と収入を手にするとは限らない(その可能性は相変わらず高いかもしれないが)という現実に直面した、戦後はじめての世代なのである。

付け加えると、日本では自殺した人々に対して優しすぎることがかえって自殺を助長しているという解釈があるが、私もその通りだと思う。生きている間の「ダメ人間」「使えないヤツ」という烙印が、死ぬことできれいさっぱりなくなってしまうのであれば、死ぬことをすすんで選択するのはごく自然なことである。中国でも日本とは違った意味でだが、自殺をすることで人々に何かを訴えることできるという文化があるように思われる。「死んだら両親や友達が悲しむだけだ」という良識的な意見は多いが、あまり自殺の減少に貢献できるメッセージだとは思えない。

論証できるほどのデータは持っていないので、半ば推測の話になってしまったが、自殺がしたいと一度でも思ったことのある人は、私を含めてありふれているだろうが、自殺願望をかきたてるこうした環境の存在について少し考えを巡らしてみれば、いくらかは気が楽になるのではないかと思う。むしろ自殺して欲しいのは、「景気のせい」という解釈のほうである。