「成長戦略」は正しいか

日本が生き残るためには成長戦略しかない、ということが当たり前のように言われるが、果たしてそうなのか。もちろん全面否定はしないけれども、私は敢えて成長戦略は間違いだと主張したい。

一つには、成長するためには「景気」が良くなければならないことである。しかし言うまでもなく、「景気」が将来どうなるのかということは市場の問題だから根源的には不確定である。「景気」が良くなるような政策などというのはそもそも難しい。10年以上前は「公共工事による景気の刺激」ということが散々言われていたが(今でも国民新党は言っている)、全く「景気」はよくならず、地方の風景がハコモノで汚染されただけに終わった。今は「景気がよい」と言うことができるにしても、これが将来にわたって永遠に続くとは考えにくい。要するに、成長戦略による日本経済の建て直しといのは、少々ギャンブルに近いのである。本当のギャンブルならともかく、政治がこうしたギャンブルに興じるのは論外である。景気対策を全くやるべきだとは言わないが、景気の動向は国家がコントロールできない以上、景気に左右されずに国民の社会生活の水準を維持できる分配政策を先ず考えるのが政治の役割である。そもそも「機会の平等」による競争を言うのであれば、まず競争に参加するための資源の平等な分配が行なわれてなければならないはずだが、誰も彼もが教育の問題にすりかえている。

もう一つは、「景気」を維持し続けていくためには、当然ながら国民全体が一生懸命働き続けなければならないからである。バブル時代も「日本人は働きすぎ」と揶揄されてきたが、今は揶揄する気が全く起きないほど働き過ぎである。正社員のうち4分の1は週60時間以上働いているらしいが、もし今の「景気」を維持するということは、こうした奴隷のような労働状態を維持していくことを意味していている。日本社会全体が貧しい時代であれば、こうした過酷な労働も「昔に比べれば」と我慢できるのかもしれない。しかし、物心ついた頃から当たり前に「豊かな社会」を生きてきた今の30台以下にとって、週60時間も働くような苦労を受け容れるモチベーションは弱い。結局働くよりも親の財産を切り崩しながら細々と生活するほうがまだマシだ、と考える人々を増やしかねない。先進国の国民の労働意欲の低下は別に日本に限ったことではなく、「豊かな社会」を経験している国にとって当たり前のことなのである。むしろ日本は依然として、無理して働こうとする人が多すぎると思う。

私は言いたい。まだ「成長」するのか、どこまで成長すれば気が済むのか、日本は「豊かな社会」になったはずじゃないのか、もういい加減にしてほしい、と。

そう言えば書き忘れたが、昨日の「朝生」で「景気が回復して失業率が下がった」というデマが依然としてまかり通っているのは驚いた。前にも書いたことがあるが、求人が増えたのは団塊世代が大量退職しはじめたからというもっと単純な理由である。こういう悪質なデマによって「成長戦略」が正当化されるのを許してはならない。