女性は産む機械

「女性は産む機械」発言がまだ問題になっている。経済同友会の某社長の「過労死は自己責任」といった正真正銘の「暴言」に比べると、そこまで非難すべき失言とは思わないが、たとえとしてもやはり間違っているものである。

そもそも、これまでの少子化対策そのものが女性を「産む機械」であることを前提にしていることも、指摘しておく必要がある。機械というのは自動販売機のように、一定のマニュアルにしたがって入力すれば、期待通りの結果が出力されるということを意味している。いま柳沢大臣を非難している人の中には、日ごろ「働く女性のキャリアアップを妨げるような育児環境の不備が少子化を推し進めている」と主張していると思われる人もいる。しかしこれは、乱暴に言えば「給料が減って出世ができないから子供を産む人も減る」ということで、これは明らかに女性を「機械」扱いするものではないだろうか。少子化問題が、賃金や社会的地位が保障されれば解決するかのような言い方は、やはりどこか「女性が産む機械」であるという発想を感じてしまう。それに対して、「女性は家庭の中で子供の面倒を見るべき」と言い切る保守派の人たちのほうが、正しいかどうかはともかく明らかに女性を「人間的」に考えていると言えるだろう。

今の現状でよくないと思うのは、先の猪口邦子元大臣のように「男女共同参画」と言っている人たちが、柳沢大臣のように経済自由主義路線を推進しようとする人たちと、「女性の社会進出と経済的自立」という点で結果的に共犯関係になってしまっていることである。両者には、少子化対策が経済成長に資するという機械論的な発想がどこかで共有されている。しかも、これは結果的に男女平等をもたらすと言うよりも、男性と同じように低賃金・長時間労働を強いられる女性を増やし、むしろ現場では長時間労働に耐えられる「体力の差」という、なかなか埋めようのない新たな男女格差を生みだしつつあるように思われる。「男女共同参画社会」を唱える人たちは、こういう現実を直視しなければ、人々はますますそれを「強者のキレイゴト」としかみなさなくなってしまうだろう。