東アジア共同体

最近「東アジア」と題名のつく本がたくさん出ているのでたまに手に取ることがあるが、例外なくおそろしいほど退屈なことが多い。書いてあることは間違いではない。というか、あまりに正しすぎることが書いてあるので退屈なのである。前にも書いたが、「もっと深く考えて」とか「日本人はアジアの声の耳を傾けて」以上のことがそこには書いていないのである。だからどうしても、表現はきわめて穏やかであるものの、社会的な権威をもった学者や文化人たちが「もののわからない人たち」に教え諭すという口調になってしまう。北朝鮮、韓国、中国に対する批判の高まりも「困ったものだ」という感じの反論しかできず、なぜそうした批判が高まっているかという現実に踏み込んでいかない。こうして、学者や文化人あるいは経済界のトップ、政治家の一部くらいしか「東アジア共同体」の理念に共鳴しないのである。

こうした議論の看板を背負っている姜尚中がいい例である。彼が頑張ってマスメディアで訴えかければかけるほど、世論はどんどん逆に進んでいくという皮肉な事態になっている。「東大教授」「民族マイノリティ」という彼の肩書きに象徴されるように、「東アジア共同体」がどこか既得権層の綺麗事であるように映ってしまうのである。

少なくとも「東アジア共同体」を説く人は、以下の困難をもっと語るべきだろう。

第一に、日本の学者は「東アジアの友好」というと簡単にコンセンサスがとれるかもしれないが、中国も韓国の学者の大多数はアジアにも日本にも大して興味を示していないという事実にきちんと言及する必要がある。日本では中国と韓半島を含めてアジアといういい方は普通かもしれないが、中国ではそれほど一般的な言い方ではない。「東方」とかのほうがむしろよく使われており、そこで意味するのもほとんど中国以外のものではない。少なくともアジアというのは政治的な場面か、アジアが一般名詞である日本や外国での活動が多い研究者が使うか、いずれかだろう。日本では「東亜」「亜細亜」を冠する大学や高校が多数あるが、おそらく中国には一切ないはずである。

第二に決定的なのは、「東アジア共同体」という理念によって現在横たわっている問題の何を解決すべきなのかが、さっぱりわからないのである。要するに、「東アジア」が共有する「問題」が何か、それこそ新聞くらいしか読まないような人でも共感できるような何かがあまりよく見えてこないのである。もちろん経済的な連繋や人の交流が深まっているという事実はあり、政治的な場面もちょくちょく使われているが、それは政治経済的な事実に必要上名前を与えたにすぎない。その昔アジアという言葉が輝いていたのは、先進的な欧米諸国に対する後進諸国の抵抗を意味していたからである。「東アジア共同体」を説く人々は、「現実を見つめて」とか「深く考えて」とか言うばかりで、この言葉が現実のどういう状態を変えていく可能性があるのかを伝えようとしない。現在、北朝鮮の核実験問題で日中韓は比較的まとまっているが、これが「東アジア共同体」の理念からほど遠いことはあきらかである。

私は少なくとも、いま語られる「東アジア共同体」の理念が素晴らしいなどと思ったことはただの一度もない。政治や経済の利害が透けて見えるか、学者的な正論かのいずれかにしか感じられない。アジアそのものにあまり興味のない人たちはなおさらだろうし、むしろ北朝鮮反日デモのイメージがずっと強いだろう。「東アジアの友好」を下手に説こうものなら、失笑をかってしまうのが現実である。「東アジア共同体」を説く人は、こういう現実にもっと入り込んでほしいものである。