ホワイトカラー・エグゼンプション

ホワイトカラー・エグゼンプションがここのところ大きな批判の的になっている。ここまで露骨な「残業代ゼロ法案」には、さすがに与党内にも慎重論が出ている。

ただ導入する側の理屈にも少し真面目に付き合って見る必要はある。その理屈とは、労働の価値を時間ではかることをやめることで、効率のよい働き方が促進され、結果的に生産効率が上がるとともに、労働時間が減少されるというものである。少なくとも、時間に換算できない「クリエイティブ」な仕事が増え、成果主義が広がっている現状に対応できるというのである。「ホワイトカラー・エグゼンプション少子化対策になる」という、失笑ものの安倍首相のコメントも、この論理に忠実に従ったものであると言えるだろう。

もちろんこの論理は建前でしかないと批判することはできるし、またその通りなのだろうが、私が考えるに問題はそれ以前の「効率のよい働き方が促進される」というところにある。というのは、労働する能力には当然ながら宿命的に個人差があるからである。IT長者のように激務を激務と思わないで膨大な仕事量をこなす人もいれば、上司の説明を理解するだけで疲労し、「言ったことがどうして守れないのか」と叱責されて冷や汗を流す人もいる。これはいいとか悪いとか以前の冷厳な現実である。

しかし、ホワイトカラー・エグゼンプションの論理だと、同じ仕事を3時間で終らせることのできる人は早く退社できるとしても、10時間かかってしまう人はその分の残業代がもらえないということになる。要するにホワイトカラー・エグゼンプションとは事実上、効率よく働く能力のない人を社会的に制裁する制度なのである。企業がこうした態度をとるのはある意味仕方がないかもしれないが、政治は当然ながら、仕事の能力のあるなしに関わらず全ての人が「幸せ」になるように公平に扱わなければならない。だがホワイトカラー・エグゼンプションは、効率よく仕事をこなすことができない人に対して、差別的で厳しい待遇を行なってもよいということを政治的にも認めてしまう。

だらだら働いて、時間稼ぎで給料を貰っているようなけしからん奴もいる、と導入する側は言うかもしれない。しかし敢えて言うが、だらだらと働くことは決して悪いことではない。今でも田舎町の個人商店は、近所の人と長々と談笑しながら商売していることが多いが、それも働き方の一つである。労働の義務は憲法に規定されているとしても、どのように働くのかに関して政治は干渉しないのが原則である。しかし、ホワイトカラー・エグゼンプションの論理だと、とにかくスピーディに仕事をこなす方向に労働者を追い込んでいく、というよりそうしないと給料を減らすという制裁措置を公認してしまうのである。

一方で、このホワイトカラー・エグゼンプションは、効率よく働ける人にとっても何の利益もないことは明らかである。1日10時間でかかる仕事を3時間で終らせたとしても、その3倍の仕事を1日でこなすように会社から要求されることをは容易に想像できることであり、むしろ能力のある人間ほど労働地獄が待ち受けている可能性がある。それによく指摘される通り、日本の企業風土では仕事が終ったから一人だけ帰る、という態度をとることは一般的に言って難しい。

もちろんホワイトカラー・エグゼンプションは、現実に横行していることを追認しているだけに過ぎない、という言い方もできる。しかし問題なのは、政治がこの現実を「公認」してしまうことなのである。当たり前だが、現実はそれ自体において「あるべき」状態であるわけではなく、それを判定するのは政治の役割である。もしホワイトカラー・エグゼンプションが法案として国会を通過してしまえば、サービス残業が横行している状態、そして効率よく働く能力の低い労働者が差別的に待遇されるということが「あるべき」だということになってしまう。

これは推測だけれど、厚生労働省がこんな法案を提出したのは、膨大な数の労働基準法違反の取り締まりに忙殺され、しかも実効性がほとんどないというラチのあかない現状があるのだろうと思う。しかも取り締まり対象者は、どんな商品でも素晴らしいと言い張り倒すことの能力を鍛えてきた企業経営者ばかりであり、こういう連中と毎日のように「違反したでしょう」「何の証拠があんだよ」とやり合っていたら、厚生労働省が疲弊してしまうのは当然である。

ホワイトカラー・エグゼンプション自体は、いまのところ実現するかどうか微妙な状態である。しかし政府と与党が、このような露骨きわまりない「残業代ゼロ法案」を提出しても別に平気だと考え始めていることは憂慮すべきことだと思う。実際、一昔前であれば、こうした法案はニュースになった直後に潰されていたはずであるが、今は批判は多いとはいえ瞬時に押し返すほどの力は全くない。この現状が、ホワイトカラー・エグゼンプションをめぐる問題で、あらためてあらわになってしまったという感じがする。