核武装論批判

ネット上で見る限り核武装論への支持は異様に高い。

核武装論を批判する人は、道徳的な感情で批判するか、その「非現実性」を論理的に説明しようとするかのいずれかである。しかし、いずれにしても無意味というか、全く逆効果でしかないという感じがする。まず反核を道徳的感情で説得しようとすれば、体制的に正当性をもつ思想である「非核三原則」を「無批判に上から押し付けられている」という反発を生む。「非現実性」を説く側は、というと実はこれはもっとまずい戦略である。核武装論者から、「そっちこそ現実がわかってない!」という、「現実」をめぐる神学論争に陥る危険性がある。事実、小林よしのりは非核論者の現実認識を全面的に批判をして、真正面から核武装の「現実性」を肯定していた。

では核武装論の何を批判すべきか。それは、核武装論者の論じている中身ではなく、彼らが多少なりとも前提にしている物の見方に照準を合わせて批判をする必要がある。

一つには、タカ派といわれる人たち一般にある、「自立外交」への幻想である。「自立外交」は「核廃絶」と同程度の実現不可能な幻想である。また、幻想であるからこそ、「自立」という言葉には重要な意味を持っている。ところが、核武装論者はこれがわかっていないどころか、「現実」の名の下に「自立外交」を主張するのである。「自立外交」が理想であると理解されていれば、「自立外交」を目指しつつ現実には身の丈にあった堅実な戦略をとるということは、一切矛盾するものではない。しかし核武装論者たちは、「自立外交」を「現実」だと勘違いしているので、核のような物理的な兵器の保持で「自立外交」を一気に実現しようという短絡に陥ってしまう。「自立」が根源的に到達不可能であるということを理解できていないので、核武装をしたところで「まだ自立外交が実現できていない」とさらなる不満が出てくる、当然ありうる可能性に対する想像力が働かないのである。

もう一つは、どうも核武装肯定論者には、というか全体的な雰囲気として戦国歴史小説的な国際政治観が蔓延しているような気がすることである。戦国歴史小説的というのは、要するに国際政治を「智将」たちの謀略や駆け引きなどにで成り立っているかのように理解している、ということである。金正日という人物も、そうした小説の戦国大名のように緻密な謀略を張り巡らしているかのような前提で語られることが多い。しかし金正日が何を考えているのかは、今のところほとんど想像の域を出ないものである。また、過去の日本の戦争指導者たちにしても、「その場の空気というのがあって」と弁明を繰り返したことは有名だが、戦争というのは明確な利益のようなものをめぐって起ったり、支持されたりするわけでは必ずしもない。しかし、あくまで小説を面白く組み立てるための戦国歴史小説的な国際政治観が、「現実的」であると勘違いされている節がある。その意味で、タカ派と呼ばれる人に歴史小説好きが多い、というのは単なる印象論ではないだろう。だが、そもそも歴史小説は、「有能」な人物の足を「無能」な連中が引っ張ったみたいな記述が多かったりするし、「有能」な人物が過剰にヒロイックに描かれたりしたり、そもそも社会全体の動向に対する記述は皆無であることが多いので、本当は政治家が見識を高めるために読むようなものでは全くない(政治家は歴史小説より、もっと学術的な歴史書を読むべきだろう)。

私は前に「議論はなくてもいい」と書いたが、やはり核武装に関する議論はすべきではない(当たり前だが国会議員が公の場でやるべきではないという意味である)と言うことにしたい。北朝鮮核武装問題などを抱えて、「どの国も日本を貶めようとし、その富を吸い上げようと虎視眈々と狙っている」という前提にたった、戦国歴史小説的な国際政治観がますます蔓延する中で、核武装をめぐる議論を行ったらどうなるか。結果は見えている。絶対に核武装論が世論への説得力を持ってしまう。石破さんあたりがいかに理詰めで核武装論を丁寧に論破しようとしても、なかなか説得力は獲得できないだろう。戦国歴史小説的な国際政治観では、軍事力の増強という以外の現実的な選択肢が思い浮かばないからである。

最後に、核武装論は決して二者択一ではないという意見があるが、「絶対すべき」「選択肢の一つ」「現実的ではない」「言語道断」など表現にグラデーションはあるものの、やはり持つべきか持たないべきかの厳然たる二者択一でしかない、ということを強調しておきたい。そもそも二者択一でないとすると、いったい何を前提に核武装論を議論するのだろうか。政治家は何かを現実に実行するために議論をするのであって、実現の可能性を脇に置いた議論はあくまで学者や評論家の領分である。だから「核武装も選択肢の一つに入れるべきだと考えるので、その実現可能性について議論したい」というのであればよくわかる。「核武装の必要性」を感じないのに、議論のモチベーションが沸き起こるのだろうか。やはり全くわからない。