お上意識

日本人は「お上意識」が強いといわれる。

確かにそうだ。「お上意識」を批判し、公務員の「特権」を批判し、その数を削減せよとのたまう人が、「行政は何をやっているのか」「政府の責任だ」と平然と言う。「お上意識」を強く批判する人の論理の中に、強固な「お上」願望がある。「お上意識」への批判は、ほとんど日本社会のお約束であると言っていい。私の「お上意識」も相当なものだと思うが、こういうお約束的な「お上」批判を平然と繰り返す人たちほどではないと思う。

日本人は「お上」というのは絶対になくならないものだと思っている。「下」がどれだけ批判し、「お上」の力をそぎ落とそうとも、天から降り注ぎ続けるものだと考えている。日本と中国との違いに何があるといわれたら、真っ先にこの「お上」意識を挙げるだろう。中国では「お上」の力なんていい加減なもので、砂上の楼閣でしかない、ということが暗黙の前提になっている。「お上」に対する批判は、「お上」そのもの転覆にまで行き着いてしまうと考える。当然支配層は、「お上」批判に対しては非常に敏感にならざるを得ないし、少々誇大なスローガンを掲げて権威を正当化しなければならない。

ある意味で日本で民主主義がここまで定着したのは、「『お上』はいくら批判・罵倒されようとビクともしない」と、批判する側もされる側も信じきっていたからである。民主主義という点で日本は中国に勝ると本気で思っている連中もいるが、日本の民主主義もある部分で、非民主的な「お上意識」の産物であったことを理解しなければらない。この「お上がなんとかしてくれる」という信頼感は、安定した社会秩序の源泉でもあり、ある意味で日本社会が受け継ぐべき遺産でもある。

ところが最近、その「お上」自体が本当に弱りつつある。日本社会全体の慣行だった天下りが批判され、ここ最近は給料が少し高めだとか公務員宿舎が贅沢とか、だんだん批判の内容がみみっちくなっている。どれも20年前は、馬鹿馬鹿しいとしか思われなかったような批判である。天下りや公務員宿舎を全廃したとしても、今の財政赤字の改善にはそれほど影響を与えない、という常識的なことが全く語られない。

普通に考えれば、民間企業は公務員よりもずっと露骨に「悪」をやっている。社員を平気で一日12時間もサービス残業で働かせ、非正規社員など不安定な労働者をどんどん増やし、「グローバルな競争」「自己責任」という美辞麗句を連ねて平然としている。しかし、そうした職場で苦しんでいる社員やフリーター・派遣労働者は、自分を直接苦しめている当の対象であるはずの企業の経営者ではなく、むしろ公務員などの「お上」に憎悪を感じるのである。公務員は公平に言って、コスト削減に汲々とする企業経営者よりは、劣悪な労働環境を是正してくれる可能性のある人々である。ところが、そういう人々が、苦しんでいる人たちからルサンチマンをぶつけられている。昔の「反体制」主義者には、「お上よなんとかしてくれ」という期待がまだあった。しかし今は期待が消失して、ルサンチマンだけが鬱積しているのである。「別に何にもしなくていいから、お前らも俺たちみたいに苦労しろ」というわけである。

今のところは、まだ「お上」は健在である。しかし公務員の数を大幅に削減した上に、敬意や期待なしにルサンチマンだけがぶつけられ続けて、「お上」が健在であり続けるわけがない。またそうした環境に置かれた「お上」が、意欲をもって社会を運営していけるわけもないのである。そういうことに想像をめぐらす人が全くいないというのは、それだけ日本人は「お上意識」が強いという証拠なのだろう