平和主義批判

「社会的な不安や不満を「平和主義」で表現できないという現実に、革新政党も学者もマスコミももっと悩むべきではないのか」と前回書いたが、ちょっとだけ補足。

「右傾化」を批判する人たちは、「平和主義」や「アジア諸国との友好」という理念を緩やかに共有している。それはもちろんいいのだけれど、「平和主義」や「アジア諸国との友好」で、現実に横たわっている問題の何が解決できるのか、これをさっぱり語ってくれない。逆に、「安易な強硬論に飛びつくべきではない」とか、「アジアから発せられるメッセージに日本も応えなければならない」とか、われわれが努力すべき項目を増やしている印象がある。現代社会に不満や不安を感じている人が、こうした議論に魅力を感じないのは当たり前である。1年後の将来が不安な人に、「もっと広い視野を持たなければ」とか「寛容にならなければ」と説いても、「俺の置かれた立場を何もしらねえくせに」と無用の反発を招くだけだろう。それを説く側が、「東大教授」や「官僚OBの国会議員」などの肩書きを持つ人間であれば、なおさらである。

「過去の戦争」の記憶ばかりに依拠して「平和主義」や「アジア諸国との友好」を語ると逆効果だ、というのはそういう意味である。30代以下の人にとって平和は空気のような存在である。それに対して、「戦争の悲惨さ」を説いて「平和は空気のように当たり前のものではない」と語るのは正しいことかもしれないが、30代以下の若い世代は「またその話か」と何も感じないだろう。しかも平和主義を説く側は、戦争をする勢力が国内にいるかのような前提でしか相変わらず語ることができていない。いずれにしても、「空気のように平和」を吸ってきた、若い世代にとっては全然現実味が感じられないのである。結果として、平和主義は学者や革新政党、大手マスコミの中で(とりあえずそれを信じている振りをすることで場に入っていけるという)「お約束」として共有されている空虚な理念でしかない、とますます感じられようになっている。

「平和主義」や「アジア諸国との友好」が、現代社会に横たわる問題をどのように解決するのか。「右傾化」批判からは何も見えてこないし、私自身もわからない。しかし少なくとも、それを語ろうとせずに「右傾化」を歪んだものとして道徳主義的に批判するばかりであれば、現代社会にルサンチマンを抱えた人たちはますます「右傾化」に希望を見出すだろう。