「右傾化」の理由

昨日赤木さんの文章を読んでいろいろ触発されたが、わかってきたのは「右傾化」の意味である。アカデミズムやジャーナリズムという場に属する人間にとっては、「右傾化」に対する批判的なスタンスはほとんど必要条件である場合がほとんどである。そのせいか専門では緻密な実証研究に従事する人でも、「偏見だらけで頭の悪い権威主義者」みたいな粗雑なイメージ(実際に粗雑ではあるが)で「右傾」を語り、そこにある歴史観を「修正主義」というレッテルで終わらせていることが多い。そして年長世代だけではなく若者までがそうした「右傾」にはまってしまうのは、今の社会に対する不安や閉塞感を打破しようと「安易でわかりやすいもの」に飛びついたからであると解釈されることが一般的である。つまり、アカデミズムやジャーナリズムは、これをどこまでも「不健全」で「病的な現象」として処理したがっているのである。しかし繰り返しになるが、「右傾化」という現象が日本社会全体を覆いつつあることを問題にしたいのであれば、この現象にどこか「健全」で「正常」と思われるような部分が存在していると理解しなければならない。

(1)冷戦後の国際情勢の変化
 「右傾化」を批判し問題にする文章で最も驚くべきことは、当然その背景にあるはずの国際政治の情勢がほとんど言及されていないことにある。冷戦崩壊、PKO問題、北朝鮮核開発問題、中国の台湾海峡ミサイル演習、靖国問題に置ける中韓両国の強硬な態度、昨年の中国における反日デモ、9.11からイラク戦争に至るまでのアメリカの武力外交と日本の追随的対応・・・等等の国際政治の問題なしに日本社会が「右傾化」したとは、当然ながら想像しにくいだろう。こうした国際社会の現実の前に「憲法9条が駄目になった」と考えるのはむしろ常識的な感性であり、実際近年は9条改正は一つの「まっとうな意見」になっている。ところが「右傾化」批判は、語るまでもないことと思っているのかもしれないが、こうした誰もが知っている政治的背景にほとんど言及しないのである。もっと驚いたことに、学者たちの「東アジア共同体」を謳う本などを見ると、「東アジア」の一員であろう北朝鮮拉致問題や中国の反日デモなどの事件が一切言及されていないことがある。こんな有様では、誰もまじめに「東アジア共同体」などに付き合うはずがないのであって、学者たちの趣味でやっている空論と思われても仕方がないだろう。

(2)インターネット
 インターネットと「右傾化」を関連づける議論はいくつかあるが、そこでの解釈は掲示板などにおけるネット・コミュニケーションにおいて、旧来の左翼的なタテマエの薄っぺらさを茶化して盛り上がる作法が「右傾」に見えるだけだというものである。確かにそういう側面があるとは思うが、いまひとつピンとこない。「右傾化」とインターネットの関係でより重要なことが語られていない。昔は「左翼全盛」だったといわれることが多いが、それはあくまで大学やマスコミという知的エリートの中での話であることを踏まえる必要がある。かつて「右傾」的な主張や感情というのは、大学やマスコミで言論を操ることとは全く無関係な地域社会や村落の(それこそ中学校も出ていない)住民たちの中に溶け込んでいたものであり、そうした「声なき声」が「55年体制」と呼ばれる長期の自民党支配を支えていた。昔の「右」的なものというのは思想や言論ではなく、ほとんど生活や感情と一体のものであったのである。しかし、こうした生活や感情としての「右」は、地域社会や村落の脆弱化や教育制度の定着とももに、80年代以降に論壇誌などの形で次第に言論的なものへと変質していき、この言論が90年代になって「誰でもいつでも発言できる」インターネットが登場して爆発したことが「右傾化」の背景にある、というのが私の考えである。

(3)平和=現体制維持という構図
 最後はまさに赤木さんが見事なまでに明快に語ってくれたことである。護憲平和主義を看板にする共産党社民党は「マジメに働く生活者の視点」を繰り返すが、今の若い世代の一定数は「マジメに働く生活者」ではないし、「マジメに働いている」者も働くことに誇りや生きがいを見出していない。少なくとも革新勢力の過剰に優等生的でビジネスライクな物言いもあって、「あんなマジメな連中とオレとは関係ない」としか思えないのである。しかし、いつまでたっても革新勢力は「平和に暮らそうとしている庶民の生活を自民党は戦争で破壊しようとしている」という視点でしか論じない。学者たちはさすがにここまで単純ではないが、従来の平和主義論の語り方ではもはや通用しないということをきちんと反省せず、台頭する「右」の言論を「歪んだもの」「社会的な不安のはけ口」として切り捨てることしかしてこなかった。しかも、批判の拠点として「過去の戦争」を持ち出すのはいいのだが、「団塊ジュニア」以降の今の若い世代は日本が戦争が出来る国だと全く思っていないし、想像も出来ない。韓国や中国への反発の大きな部分も、「日本が戦争をする能力も意思もないなんて、すこし考えれば分かるじゃないか。どうしてあいつらは理解できないのか」という点にある。こういう若い世代の現実感覚を理解しないで、従来のように過去の戦争体験だけに依拠した平和主義を語るだけだと「わかった、もういいいよ、聞き飽きたよ」と思われるだけである。


あまりうまく論じられなかったが、「右傾化」と呼ばれるものの中身はこんなものではないかと理解している。「右傾化」というと、つい『諸君』や『正論』みたいのものをイメージしてしまうが、そのイメージだけで「右傾化」を批判すべきではないと考えている。従来の批判は「右傾」には実体がない観念や虚構のようなものとして扱うものが多かったが、論壇誌の観念論を相手にしていればそう言いたくなるのはわかるにしても、上に書いたように私は「右傾化」はもっと根の深い現実に支えられたものであると考えている。「右」を遠巻きにして批判する前に、社会的な不安や不満を「平和主義」で表現できないという現実に、革新政党も学者もマスコミももっと悩むべきではないのか。

「大学教授」「ジャーナリスト」などの肩書きを持つ人間から、「君たちは改憲論などに安易に飛びつくべきではない」と言われると、1年後の生活の見通しもない若い世代はかえって反発して、ますますこうした「体制側」への嫌悪から「右傾化」に執着していく。この構図にこの10年間「右傾化」を批判してきた学者・マスコミ連中も、そろそろいい加減気付かなければならないだろう。