希望は戦争

格差社会論も食傷気味と思っていたところに、『論座』1月号に赤木智弘「「丸山眞男」をひっぱたきたい」という文章を読んだ。大げさじゃなく、この1年の格差社会論で最も刺激的で面白い論文だった。

今までの格差社会論の多くは、「真面目に働く庶民」を前提とした「新自由主義」「勝ち組」批判が多かったし、フリーターやニートの問題も、「新自由主義」「勝ち組」と呼ばれる層が批判の矛先になっていた。しかしこの現役フリーターを自称する赤木という人は、「真面目に働く庶民(=労働者)」を敵視する。自分を「弱者」であるとためらわず自己定義し、怠惰なのではなく「不幸な世代」であるだけだと訴える。そうして彼は主張する。いま「平和な社会」の維持を語ることは、定職と家庭をもつ上の世代の豊かな生活を維持し、若者を家庭ももてないような弱者にとどめておく、現在の状態を維持することでしかない。それに比べれば、国民全員が平等に苦しむ戦争状態のほうが、若者たちによってはるかに望ましいのだ。そうして赤木は「私を戦争に向わせないでほしい」と訴える。

赤木の議論には多くの点で間違いがあると思うが、確信犯的にやっている面もあると思うので、ここでは敢えて問題にしない。少なくとも、社会的・経済的に下層の若者たちが「平和な社会」がこのまま続いていくことに対する憎悪を、ここまで明快に言い切り、正当化してみせた文章はほとんどなかったのではないだろうか。従来の「右傾化」批判は、「社会的流動性への不安に耐えられなくなった」とか「既存の左翼がネット・コミュニケーションのネタになっているだけ」みたいな議論が多かった。こういう議論は、保守論壇を念頭に置いてしまっていることが多いせいか、「右傾化」の中身そのものは「くだらない」「虚構」「病的」なものでしかないと切り捨てていることが多かった。

こういう利口ぶった物の言い方を好む人に言いたいのは、赤木氏の「平和が続けばこのような不平等が一生続く」という叫びに、一度真面目につきあってみる必要があるということである。ここには生々しいほどの「右傾化」への社会的なリアルがある。赤木は間違いなく、そのリアルさの危険を最も自覚している人物である。もしこのリアルさに向き合わず、今までのように遠巻きにして「右傾化」する若者連中を「異質」扱いし続けるのであれば、赤木のようなルサンチマンを抱えた若い世代は本当に戦争を支持するしかなくなるだろう。