「造反議員」の復党を支持する

自民党支持者ではないが、今回の「造反議員」の復党は美しい話ではないにしても、個人的には少なくともいいことだとは思っている。

2005年9月11日の総選挙は、郵政民営化という重要度の相対的に低いと思われる問題を、国民的なレベルで二者択一を迫るという異常な選挙だった。目の前の郵政民営化法案には反対でも、小泉首相構造改革全体には賛成するという、当然ありうべき政治的な態度は抹殺されてしまった。「改革」「規制緩和」「民営化」「自己責任」など、それこそこの10年の間に聞き飽きたフレーズが連呼され、ホリエモンのような野心が服を着て歩いているような人物や、杉村泰蔵のような政治のど素人までが選挙に出馬した。「抵抗勢力と戦う」「古い体制をぶっこわす」という勇ましいフレーズ以外、何も積極的な価値や目標は語られなかった。どこかにいるのであろう「既得権益に安住する勢力」に向かって銃を乱射するだけで国民が拍手喝采した。こんな「ポピュリズム」と揶揄されてきたような古典的な政治手法が、まさか現代の日本でも通用してしまうとはさすがに驚きだった。

造反議員」の復党を容認するということは、道徳的な話ではないにしても、政治的な選択肢を「改革」か「守旧」かの二者択一に還元し、徹底した自由競争原理主義を推進する「郵政民営化選挙」体制をそのまま是認しないということの表明であり、この方向性自体は悪くないはずである。「造反議員」の復党に憤る人は、この選挙は結果はどうあれ正しい選挙だったと思っているということになるが、そもそもあの選挙は出発点からして間違った選挙だったのではないだろうか。「造反議員」と言われる議員も一方的に切られたのであって、自分から積極的に出て行ったわけではない。小泉前首相が「造反議員」復党を積極的に支持したのはさすがに苦笑いだが、こうした「抵抗勢力をぶっつぶす」と絶叫しつつその実政治的には鷹揚に振舞うというスタイルは、5年もこの首相につきあってきた国民であれば当然想定の範囲内だと思うべきだろう。

そもそも自民党内部のことだけ、選挙のことだけを考えるのであれば、「造反議員」は絶対に復党させるべきではないのである。選挙のための復党であれば、既に無党派を相手にする政党になった自民党にとっては正しい政治的選択ではない。しかしさしあたって自民党がどうなるかはどうでもいい。政権与党が「郵政民営化選挙」体制をゆっくり安楽死させようとするのであれば、それはそれで支持を与えるべきだろう。