いじめっこはどこに?

普段は安直なマスコミ批判をする連中を軽蔑しているが、さすがにここ最近のいじめ問題に関する報道はひどすぎる。

だいたい、いじめが問題であるとすれば、最も反省し、態度を改めるべき存在は誰なのだろうか。そんなのは幼稚園生でもわかる。直接いじめを行った生徒である。それ以外には有り得ない。直接いじめていた生徒と、それに加担していた仲間と、消極的に同調していたクラスメートの順に悪い。基本的に教師は悪くない。もちろん公に謝罪するのは教師だが、それは社会的に「未熟」な生徒のかわりに、クラスの監督者として、そして一人の大人として社会的責任をとっているだけである。最終的にいじめっこの生徒が責任をとらないのは、あくまで社会的な能力や責任感に欠けた子供として扱っているからであり、教師のほうが悪いからでは決してない。テレビや新聞の報道を観ていると、こういういじめ問題を考える際の大前提が共有されていないのではないかと心配になる。少なくとも10年前はまだ最低限共有されていたように思うのだが。

いじめ自殺に追いやった生徒のほとんどは、少し先生に説教されただけで(あるいはそれすらなくて)、深刻に反省することもなく、何事もなかったように学校生活を送り、卒業していく。生徒の親も、わが子がいじめっこだっという事実を知ることはない。しかし、いじめられて自殺した生徒の親は、その後の人生のずっとわが子を失った悲しみに縛られることになる。私がいじめ問題で何に憤るかといえば、この理不尽さである。ところがマスコミはこの理不尽さに憤る前に、何も悪いことをしていない学校関係者を質問攻めにして、当然しどろもどろになってしまう発言に容赦ない突っ込みを入れていく。教師はいじめを大人の力で解決できるほどの権威と能力をもはや持っていないことは、「学級崩壊」問題でさんざんわかっていたはずではないだろうか。生徒にひどいいじめを受けて辞めていく若い先生も後を絶たないことは、私の中学時代の先生もそうだったような、かなり前からありふれたことである。それなのに「教師がちゃんと対応をしていれば・・・」みたいな、良くも悪くも教師が「権威」だった時代の古臭い教師像で、現在の問題に直面している教師たちを「まじめに生徒に向き合っていない」と批判する。マスコミはいったい、いじめの何に怒っているのだろうかという感じがする。

あとこれは10数年前からの疑問だが、どうして識者やコメンテーターたちはこぞっていじめ問題を傍観者的に眺めて、「いじめはよくない」みたいに簡単に説教できてしまうのだろうか。誰だって多かれ少なかれいじめたりいじめられたり、という経験はある。当たり前だが、人数的にはいじめているほうが圧倒的に多い。大人社会にだってある。「私はいじめっこでした」とカミングアウトしろと言うのではない。そういう、誰もが持っているありふれた経験を前提にしながら発言してほしいのである。しかし、なぜかみんなしていじめとは無関係だったかのような、あるいはせいぜい「いじめられたこともあったが友達とがささえてくれて助かった」くらいの顔をしたがるのである。

はっきり言っておくが、これは「うちの学校にはいじめがない」という教師たちの取りがたる態度と全く同じであり、何もかわるとことがない。自分たちの周りで起こったことを「いじめ」と定義されることを極端に嫌う。学校もマスコミも「いじめ」撲滅に躍起になっておきながら、身の周りの「いじめ」に対しては頑なに目を背けようとする。こうして、実際に深刻ないじめに遭っている生徒は、「いじめ」としてではなくて単に「だって見てるとイライラするだろ」くらいの(確かにそれ自体は否定できない)理由で、侮辱的で暴力的な扱いを受けることになるが、「問題」にされないまま放置される結果になる。

学校と教師をたたくよりも、もっと素朴な原点に帰るべきだ。要するに、いじめた生徒に謝罪・反省をさせる、そしていじめられて自殺した生徒と同様の傷をこれからの人生の中で負って生きてもらうということである。10数年前は、こういう「常識」がまだあったように思う。いまは自分の身のまわりにいじめがなかったかのような顔をして、学校と教師ばかりをバッシングしている。こんなくだらない報道ばかりが横行しているのであれば、いじめ問題など全く報道されないほうが、いじめで苦しんでいる子供たちにとってはるかにましである。