痛みを伴う改革は今や・・・

小泉政権発足当時、「痛みを伴う改革」が叫ばれた。あの田原総一朗も「首相自らが痛みを公言した。これが国民に支持されている。凄い」と褒めちぎっていた。私はどうも腑に落ちない感じを抱きつつ、反対する理屈もとくに見当たらなかったので、それになんとなく支持を与えていたような気がする。

今はそのカラクリがわかっている。一般の国民は「痛み」の宛先を、公共事業で太っている「守旧派」の政治家や、天下りを享受している官僚などのことだろうと考えていた。正確にはそう考えたがっていた。自分たちは大して痛まないだろう、とどこかでタカをくくっていた。そうでなければ、あれだけ「痛みの伴う改革」が支持されたわけがない。いまはもう、さすがに誰もそうは思っていない。「守旧派」の政治家や官僚もそれなりに「痛み」を感じたかもしれないが、一般国民もそれに劣らず「痛み」を感じるようなっている。本当は容易に予想できたことを国民は現実に直面しはじめ、今になって「改革」にウンザリしはじめている。

小泉首相のキーワードを一つ挙げるとすれば「勢力」だろう。もちろんそれは「抵抗勢力」のことであり、この前の靖国神社参拝でも「この問題を大きく取り上げようとする勢力がいる」という物言いで批判していたことが記憶に新しい。それも、どう見ても「守旧派」としか言いようのない政治家たちや、靖国参拝を大々的に取り上げて批判したがる朝日新聞の記者の目の前で、「勢力」を猛然と攻撃していた。やはり小泉首相がうまかったのは、「勢力」の具体的な宛先をつねに曖昧にし、国民全員が「俺はまさかそんな勢力じゃねえよ」と思い込めるような言い方をしたきたことである。このことと、小泉首相の「痛み」など全く無縁の明るく軽快なキャラクターもあって、国民はみな自分達は「痛み」を押し付けられる「勢力」ではないと考えることができた。これが気休めでしかないことは、本当は少し考えればわかるはずのことだったのだが、誰もそんなことは恐ろしくて考えることができなかった。

安倍氏は最悪の時期に総理なったものだ。今は「改革」を唱えれば、「また俺たちが痛むのか。いいよもう」と国民は感じるようになっている。正社員を目指せるよう「再チャレンジ」を可能にする社会と言われても、正社員自体の実体的な魅力がほとんどなくなっている。所得の高い層は「俺たちばかり頑張って働いている」という不満、低い層は「こんなに苦労しているのに報われない」という憤り、フリーターや無業者は「社会の中に居場所がない」という絶望感が高まっている。小泉首相はこうした不満や怒りを「勢力」に押し付けることで、鮮やかにかわしてきた。安倍氏には同じ芸当はできない(もちろん誰もできないしするべきじゃない)。かといって忍耐力のある老練な政治家でもない。その逆である。「痛み」を実務的にもパフォーマンスでも解消できないとすれば、安倍氏は一体どうするのだろうか・・・。

もちろんこれは私の安倍氏に対する勝手な印象論、イメージなのかもしれない。少なくともそう願いたい。