靖国神社の非宗教法人化案

麻生外務大臣靖国神社の非宗教法人化を提案している。当の靖国神社が反対するなど当面の現実味は低く、「政治の宗教に対する介入」とあまり評判はよろしくないが、細かい点はともかく私は方向性としては賛成している。

小泉首相を筆頭に靖国に参拝する人はオウムのように「靖国参拝は心の問題」を繰り返す。この論理だと、教会やモスクに礼拝することと靖国神社の参拝は同じレベルの行為であることになってしまい、それに対する政治的介入は「良心の自由」に抵触するということになる。私はこの論理に全く納得できないし、小泉首相らもまさか靖国参拝と教会やモスクへの礼拝が同じだと思っているわけはないだろう。説明するまでもなく、靖国神社に祀られている「英霊」は当時の政治的な決断や判断の産物以外のものではない。実際、誰を祀り祀らないのかという基準も「官軍」というかなり政治的なもので、靖国の祭祀からの参入・離脱の自由も存在してない。靖国参拝を推進する人は例外なく「本来は天皇や首相を筆頭に日本国民全員が参拝すべき」と考えているが、だとすれば靖国参拝は「心の問題」などではなく、参拝を国民に等しく推進するための道徳教育をいかに行うかという政治的な問題でしか有り得ない。身も蓋もないことを言えば、「心の問題」であれば参拝という形にこだわるべきではない。むしろ、参拝することで「心の問題」が過剰に政治問題化することに対する忌避感情が働かなければおかしい。

靖国参拝を政治問題化すべきでない」という人が多いが、そもそも靖国神社が政治から切り離されているほうがおかしいのである。靖国神社が宗教であるかぎり、過去の日本の戦争で散った戦没者をどう祀るべきかという、そもそも国民一般の常識や道徳感情などを慎重に総合して行われるべき判断が、一宗教法人の独断に委ねられることになる。批判の多い遊就館の展示なども、もっと多くの国民や専門家の議論に開かれていれば、あのようなテーマパークのような展示と中学生の自由研究のような歴史観にはならずに済んだはずである(もちろんこれは平和博物館などにも言える)。参拝推進派は「中韓両国とマスコミが政治問題化しなければ誰もが素直な心で参拝できたはずだ」と言わんばかりだが、靖国が一宗教法人であり、その祭祀の内容も神社が自主的に決めている限り「誰もが素直に参拝」は建前としても間違っているのである。むしろ靖国神社を国民的な追悼施設として位置づけ、「誰もが素直に参拝」させたいのであれば、靖国のあり方を国民の政治的な意思決定に委ねなければならないし、そうした国民の意思に中韓両国の批判やマスコミの意見が反映されることもごく当たり前のことと考えるべきなのである。

周知のように、靖国とは別に非宗教の追悼施設を造るべきだという案も根強くある。しかし私は、この「解決方法」は政教分離問題を理屈の上で簡単に片付けてしまおうとするだけの安易な方法にしか思えない。そんな施設を造ったとしても、相変わらず多くの政治家が靖国を参拝し続けたとしたら全く意味がないことになる。むしろ、百数十年にもわたって戦没者の祭祀の担い手であった靖国のもつ歴史的な重みを真正面から受け止めながら、長い時間をかけて地道に粘り強く解決していく道のほうを選択すべきだろう。非宗教法人化案を「現実的に無理だ」などと一蹴する人々は多いが、戦没者の追悼という問題は消費税や年金などテクニカルな問題ではなく、日本人(および中国や韓国など諸外国)の歴史意識やアイデンティティ全般に関わる問題であり、当面の実現可能性でその当否を云々してはならないと考える。