都会と田舎のねじれ

田舎の風景がファーストフードやコンビニ、郊外大型店舗、ハコモノ公共事業などで「汚染」されているという議論は多い。「顔が見える」「人間のぬくもりがある」「情がある」など長所を強調する。しかし馬鹿を言うんじゃないという感じがする。

そんなことを主張するのは大抵都会に生活の根拠がある人である。田舎の若者の多くは、そうしたベタベタした人間関係に対して、慣れてはいるかもしれないが正直なところどこかウザイ、鬱陶しいものだと思っている(もちろんある種の甘えだけれど)。個人的な印象だが、親や地元の悪口を語りたがるのは大抵田舎出身の人である。また都会の人だって、本当の田舎に住みたいとは全く思っていない。田舎というのは商店や食堂に入っても、周りの客は知り合いだらけで、外部の人は入りずらい雰囲気がある。また商店の品揃え食堂の味も、はっきり言ってよくない場合がほとんどである。

ファーストフードやコンビニを批判する人は、どうして地元の人が身近な食堂や商店を見捨ててしまうのかを説明しない。要するに、彼らにとっても説明するまでもないほどマックやセブンは「魅力的」なのである。批判する人にとっての「田舎」の魅力というのは、年に数回訪れて都会には全くない風景を楽しみたいだけにすぎない。そういう都会人にとっては、確かに田舎に来てまでセブンやジャスコの看板を見たくないという気持になるのだろう。

国政の現場でもねじれがある。地方出身の議員は、相変らず公共事業によるインフラ整備といった、地方をできるだけ都会に近づけていくことを要求する。今の自民党政権はというと、地方の自助努力を要求する。「地方は地方のよさを生かして」というわけである。田舎は都会に近づきたいのに、都会的な政治家は田舎は田舎のままのほうが魅力的だと言う。前者の論理で高速道路や新幹線を敷くと、その間の地方小都市は、短い時間で大都市圏に行けるようになり、また立ち寄る人が減って当然没落する。後者の論理だと、草津那須のような全国的に有名な「田舎」はともかく、ほとんど外来者も稀な地域は「田舎のよさ」を生かしようもない。田舎にはそれ自体で魅力があるかのように語る人が少なくないが、そんなことは全くない。

田中康夫長野県知事選に落選したが、彼は完全に後者の立場だった。だから彼を支持してきたのは、インターネットもコンビニも身近でないような本当の「田舎」の生活をしている人々ではなく、都会的な思考を身に付けている市民団体や若者層、マスコミだった。後者にとって、田中の対立候補は単なる「古臭い田舎の土建屋政治家」に過ぎない。ここには田舎のよさを生かすと言いながら、本当の「田舎」は嫌悪するという捩れた論理がある。私は純粋な田舎人ではないけれども、こうした「都会化された田舎」にはどうも腹立たしいものがある。