論理の飛躍

エコノミストの常套句は「個人の活動の自由度が高まり、競争が激化すれば経済の活力は上がる」である。

最近経済学を専攻しようとする大学生は減少傾向にあるらしいが、むべなるかなである。第一に、このテーゼにはあまりに飛躍がありすぎる。エコノミストはこれを普遍的なテーゼとして語りたがるが、「自由化=景気の向上」というロジックがうまく当てはまるのは、言うまでもなく、あくまで具体的な状況に限られる。経済の専門家の多くがこれを「飛躍」だと思っていないとしたら、そもそも経済学理論に重大な欠陥があるのではないかと思ってしまう。竹中大臣を批判するような人も、このテーゼ自体が間違いだとは言っていないように思われるが、私はこの出発点からして間違えていると考えている。少なくとも「自由化=景気の向上」のロジックがうまく機能する具体的な状況を説明しなければ、このテーゼは単なる宗教であって経済理論ではない。

第二に、このテーゼに対して「経済の活力が上がるから何?」という、身も蓋もない突っ込みを入れたくなる人々の存在が無視されている。あえて言うが、圧倒的多数の人々は大きな栄光や成功がほしいわけではなく、ほどほどに仕事をして「人並み」に生活できれば別に構わないとしか考えていない。また、「下流」でも気楽に生きることができればそれでもいい、と思っている人も少なくないだろう。特に、高度経済成長を一度経験した国の経済的なバイタリティが低下するのは必然的に避けられない。ヨーロッパでも失業手当など社会保障で平然と生活している人々が大量に存在している。総理大臣候補の一人が「再チャレンジ計画」などと言うものをぶち上げているらしいが、「チャレンジなんてしたくない」と思っている、決して少数とは言えない人々が視野に全く入っていないことは明らかである。少なくとも、「二ートや引きこもりは景気が悪く自由な経済活動が困難なせい」という、高校生でも思いつくような単純な理屈でしか考えていない。

「個人の自由」と「経済の活力」を無媒介に結びつける思考様式は危険である。当たり前のことだが、「個人の自由」を論理的に突き詰めれば、「ニートや引きこもりになる自由」や「競争に参加したくない自由」は、経済の活力とは無関係に尊重されなければならない。少なくとも、そういう人々の存在を前提にして、政治や経済が語られなければならない。自民党執行部や経済界のトップ、エコノミスト、またベンチャー企業主などの発言を聞いていると、「楽をしているやつはけしからん」という声が時々聞かれる。彼らは理念としては「自由主義」を標榜しているが、根っこの思考様式が労働を全国民に強制する共産主義であることは明らかである。