死の大切さ
子供をめぐる殺人事件の報道で「命の大切さを・・・」を云々する人が依然として多い。
しかしこれが間違いであることは、皆はもうわかっているはずである。このことは、かつてオウム事件でわれわれは既に学習したはずではなかっただろうか。サリンの実行犯は「命の大切さ」をこれ以上ないくらい真面目に考えていた医者だったという深刻な事実を、どうして誰も忘却してしまったのだろうか。長崎で同級生を殺したという事件や、マンションから子供を突き落としたという事件の犯人も、真摯に「命の大切さ」を語っていたことがわかっている。最近も少年が自分の家族を放火で殺すという事件が起きたが、これも医者の息子だったというのが示唆的である。
むしろ常識的に言っても、「命を大切に」という観念が強まると、「命」を脅かすと思われるような相手に対する寛容さがなくなり、「そういう奴は殺しちまえ!」という感情が正当化されやすい。またある者が社会への反抗的なルサンチマンを抱えている場合、「命を奪う」(特に「奪われるべきではない」と考えられている子供の命)という手段を選択させることを促すことにもなる。かつて小学校でナイフを振り回した男にしても、当然ながらそれが引き起こす社会的な影響をよく理解した上で、わざわざ子供を狙ったに違いないのである。例えば大物政治家を殺害したとしても、「何かの政治的な恨みだろう」などという形で社会的に「解毒化」されてしまいかねないのである。
むしろ語られるべきは「命の大切さ」よりも、誤解を恐れずに言えば「死の大切さ」についてではないだろうか。考えてみれば当たり前だが、死は日常の一部である。衛生・医療が発達した日本でも毎日何百人という人が当たり前のように死んでいる。昨日まで元気だった人が今日死んでいたという例も少なくない。だとすれば、子供に「命の大切さを」や「懸命に生きる姿」を教える前に、自分の死や近親者の死というやがて誰もが直面するありふれた現実を、いかに引き受けていくかについて考えさせることが必要だろう。