相手を実名で批判するのは良いことか

ニート」概念を批判している後藤和智という人が、批判は「実名」を出して行なうべきだと述べていた。この意見に一瞬頷きかけたが、ちょっと考えてそれは違うと思うようになった。

 そもそも、名指しで批判された人は、それを読んでどう思うだろうか。これは断言できるが、考えを改める人はまずいない。実際批判の内容は「こいつらは馬鹿で偏見だらけでしょうがない」というもので、そもそも議論するにも値しないという扱いなのだ。批判された側は、内容を読む以前に批判者に対する憎しみとルサンチマンを溜め込むことになる。そうすると、批判した側が相手に受け入れさせたい意見とは、真逆の方向へ相手を追い込んでいくことになる。

 はっきり言うが、明らかにレベルの低い議論のレベルの低さを実名で逐一とりあげてあげつらうのは、罵倒であり、侮辱ではあっても批判ではない。そういう議論の流行を問題にしたい場合は、「論壇誌やマスコミでは・・・という議論が横行している」くらいでいい。もし流行していない場合は、相手にせずに勝手に消えていくのを待てばいいだけである。

 実名で批判するのは、政治家のような大物か「スピリチュアルカウンセリング」のように必然的に個人名が出てくるような場合であり、そうでなければ相手が対話に値する有益な議論を行なっていると認めている場合である。しかし、この後藤という人はそもそも対話に値しないような人物を、わざわざ実名で批判している。しかも批判対象なっている言説の多くも、その人の個人的な独創的見解というよりは、誰でも言ってそうな社会的な通念や偏見に近いものである。そういう意見を実名を出して批判しようとすれば、必然的に「通念や偏見でしか語れないあなたは馬鹿だ」という罵倒や侮辱になってしまう。むしろ実名を出さずに社会的な通念や偏見として批判すべきなのである。そのほうが、「確かに俺もこういう偏見があったかもしれない」と、批判すべき相手がそれとなく考え方を修正していく可能性があるだろう。

 当初はそれなりに穏当で説得力のあることを言っていた人が、論争の過程でエキセントリックな物言いになっていくという例を何度も見ている。これは当人にも問題があったかもしれないが、批判する方にも問題がなかったとは言えないだろう。批判する相手も生身の人間であるという単純な事実を、われわれは怒りにかられてつい忘れがちである。