格差社会に関する雑感

最近「ニート」という言葉が攻撃されているらしい。批判する人によると、「ニート」と呼ばれるような人は統計上別に増えていないし、若者に対するネガティブキャンペーンの一種に過ぎないと反発しているようなのだ。しかし「ニート」と呼ばれるような人々が統計上増えていないことと、それを「問題」扱いすべきかどうかということは、端的に別問題である。彼らの批判を受け入れるとしても、玄田有史などが「ニート」という概念を創り出そうとした問題意識そのものは、簡単に全面否定できるものではないはずである。「統計上犯罪は増えていない。治安は悪化しているという言説は良識ぶる大人やマスコミが作り出したもの」という、よく言われる批判もそうで、これは「治安が悪化している」という人々のリアリティを何も説明していない。

そもそも最近流行の「格差社会」にしても、現実の格差以上に強く喧伝されている傾向がある。そもそも日本は一見してわかるような「格差」は、ホームレスなど限られた人々にしか見出すことはできない。中国だと街を歩く人々や街の通りの雰囲気を見るだけで、「下層」の存在がわかる。駅で切符を買うために並んでいる人々と、空港の待合室にいる人々は明らかに民族が違うのではないかというくらい、服装からしゃべり方から何から何まで違う。日本ではこうした格差がほとんど見出しがたいという意味では、明らかに「平等社会」である。中国の「格差社会」の実態に関するレポートを少しでも読めば、日本の格差社会問題はかなり生易しいものに感じるだろう。

では日本の「格差社会」のほうは中国に比べれば大した問題ではないのか、と言えばそうではない。中国の「下層」の人々は、良くも悪くも貧困生活や行政の対応のいい加減さに慣れており、生活環境の悪さに対する耐性が備わっている。また日本で言う「3K」の仕事の担い手であり、もちろん待遇のひどさはあちこちで問題になっているが、好景気と建築ラッシュなどで仕事そのものは膨大にある。またいざとなれば、田舎の農村に引っ込むという選択肢もあるだろう。

日本で問題になりつつある「下層」の人々はこういう古典的なものではなく、そこそこの大学を出たが就職難やモラトリアムなどでフリーターや大学院生などをしているうちに将来の道が狭くなっていった、というものである。また就職したけれども、サービス残業ばかりで必死に働いても給料が年収200万程度でまったく上がらない、というものである。ではこういう人々に「3K」労働や農業などができるかというとまず無理である。そもそも質が違うので一概に比較はできないが、格差社会に対する体感的な「つらさ」や将来不安などは、中国よりも日本のほうが深刻であるような気がする。

おそらく格差社会論を中国で書いてもあまり流行しないに違いないし、実際、一見したところそういう本はほとんど見かけない。むしろ、しばしば見かけるのは「中間層」の登場に関する本である。中国ほど格差が深刻ではない日本のほうで格差社会論が受けるのは、面白い現象だと思われる。