言論の自由

ヨーロッパにおけるマホメットの風刺画が大問題になっているが、「言論の自由」という理念が決して普遍的な価値ではないことをあらためて確認させてくれた。事実、「言論の自由」はかなり特殊な社会的条件の下でのみ可能である。

(1)国民の大多数に新聞に投書できるくらいの識字能力が平等にあること。
(2)ジャーナリズム産業やインターネット産業などの大衆メディアが日常化していること。
(3)根幹となる社会体制が資本主義市場経済であること。


(1)がなければ言論の自由は単なる少数エリートの特権意識の産物でしかないし、(2)がなければそもそも「言論の自由」を誰も行使しようなどという、モチベーションが起こりようがないだろう。そして(3)については、知識人やジャーナリストたちは、なぜか資本主義と言論の自由をあまり結びつけたがらないが、「昨日は正しいと思われていたことが、今日は別の言論によって覆される」という言論の自由と、「昨日売れていた商品が、今日は別の新しい商品のために売れなくなる」という資本主義の論理とは、全く根は同根なのである。資本主義と言論の自由を違うと思いたがる人は多いが、私に言わせればほとんど同じである。

言うまでもなく、こうした条件が揃っている国は基本的に欧米諸国であって、世界の国家の圧倒的大多数とはいえない。中国では都市部では条件をほぼ満たしているが、農村では全く満たされていない。農村部の隅々までテレビや新聞、そしてインターネットが行き渡っている日本とは、条件が決定的に異なるのである。中国に言論の自由がないなどと言う前に、こうした条件の決定的な違いについてまず考えるべきだろう。欧米の「言論の自由」を云々する人々は、こうした自分たちの特殊性に対する自覚と言うものを決定的に欠いている。「昨日は正しいと思われていたことが、今日は別の言論によって覆される」という論理は、単なる信仰ではなく日常的な社会生活の様式でもあるイスラム教に適用することは絶対にできない。

もう一つ加えるとすれば、これが実はもっとも重要なのだが、

(4)言論している人々があらかじめ一定の道徳や常識、平たく言えば同じ文化を共有していること。

言論の自由が意味を持つのは、自らの言論を対話の相手が理解可能であり、また対話の相手が対話に値する人物である前提を置くという限りにおいてである。もしそうした前提がなければ、言論の自由などを行使しようなどというモチベーションすら起こらないし、また無理に言論の自由を行使しようとすると、今回のように無用の摩擦を招くことになるだろう。今回の事件でヨーロッパの側から「なぜ風刺が理解できないのか」という反応があったらしいが、「風刺を理解する」には当然がら一定の文化を共有していることが大前提にならなければならない。言論の自由のこうした限界を理解していれば、そんな反応が出てくることはまずあり得ないだろう。

私は言論の自由と言う考え方には決定的に不信感を持っている。それは上述したように、結局のところ一定の文化の共有を前提とする排他性を隠蔽しているだけではなく、言論の自由が徹底化すると結局のところ「正しいものなんて何もない」というニヒリズムに陥るからである。そうなると、「正義」を語ることは結局批判不可能なものを想定するという意味で「言論の自由」に反するものであり、「正義」を語る人々を茶化したり皮肉ったりすることが究極的な「言論の自由」になりかねない。当然それは、皮肉を理解できない人々の怒りを招くし、また理解できたとしても屈辱感やルサンチマンを残すことになるのは間違いない。「言論の自由」を語るのではなく、決して言論なんかによっては覆せない「正義」とは何かを語る行為からをはじめること、そしてその他者への伝わらなさを日々自覚していくことこそが、本当の意味での「言論の自由」を構成していくことになると考えている。