堀江貴文とは何だったのか

堀江貴文の「哲学」をもう一回まとめてみます。

(1)客観的な価値基準はお金である
 堀江は「拝金主義者」だと批判されている。しかしこれは、「お金があれば何でもできる」と考えているという意味での「拝金主義者」とは少し違う。つまり、人間の価値を評価する基準としてお金以上の何が客観的なものなのかをいうことなのである。例えば道徳や人格によって評価すると言っても、何がよい道徳で何が信頼に値する人格なのかということは、その人の感じ方次第のところがあり、また親しく付き合っている人は、だいたい嫌いな人間よりは「道徳」や「人格」が備わっているように見えるものである。つまり道徳や人格による評価というものは、多かれ少なかれ恣意的で文脈依存的で閉鎖的なものであり、それはせいぜい「護送船団」と「会社共同体」が機能して相互の人間関係が比較的密だった昔の時代にしか通用しないものであって、経済活動の「個人化」が進んでいる現在は端的に社会の効率性を阻害しているものでしかない。つまり、別に道徳や情実が価値のないものだとは言わないけど、それは今やせいぜいごく限られた私的な価値基準であって、公的に力をもった客観的な価値基準としてはお金以上のものは現実にない、というのが堀江の考えていたことではないだろうか。

(2)「悪くない」が究極的な「正義」である
 堀江の「法律の抜け穴をつく」行為が大きく批判されている。これは単に彼に「遵法精神」がないというよりも(もちろんあるわけがないが)、彼が「正義」を「不正義を働かないこと(少なくともそう思われること)」と同一視していたことと深く関わっているように思われる。堀江が企業買収を繰り返して相手から批判される時の常套句は、「何が悪いんですか」だった。彼は自分の「正しさ」を説明しようとする意思をほとんど持っていなかった。むしろ彼はこう考えていたのではないか。今の時代に自分の大上段に「正義」を語ることは、往々にして陳腐で押し付けがましいものとして映りかねず、それが「正義」であることの説明に多大な労力を費やすだけに終わるだろう。むしろ、「自分は悪いことをしていないのに、なぜか悪いと言うおかしな人たちがいる」という姿勢に終始したほうが、周りからは「正しいことをしている」ように見えるのである。事実、フジサンケイグループがメディアの「公共性」を懸命に語っても、「なに奇麗事をぬかすか」というのが大多数の人々の反応だった。少なくとも若い世代と経済の専門家、ジャーナリストたちは、明らかに堀江のほうが「正しい」と判断していたように思う。堀江を積極的に「正しい」と評価していたのではなく、堀江に敵対する企業家や政治家を「既得権益を守ろうとする不当な圧力」として批判することで、結果的に堀江を「正しい」ものと扱ってきたのである。

(3)企業は「既得権益」を持つべきではない 
 何度も書いたが、堀江はいまさらのごとく「虚業家」と批判されている。彼はかねてから「駄目になったらゼロに戻るだけ」と言っていたように、彼はそもそも自分とライブドアという会社が常に「ゼロ」と隣り合わせであることを明白に自覚していた。私が「虚業」と批判された堀江の心中を代弁すると、「いや虚業と言うのはあなたたちの勝手ですけど、そもそも会社っていうのはそういうもんなんじゃないですか」というところではないだろうか。堀江は会社の「固定資産」、言い換えれば「既得権益」を可能な限り持たず、大金を手に入れたらそれをまた買収の資金に回すということを、繰り返して会社を積極的に拡大していった。堀江を「虚業家」と言うが、こうした「獲得した資本を延々と次の投資に回しつづける」というのは、資本主義経済の一般的な法則そのものである。ただ堀江はまず普通の人は到底しようとは思わないほど、熱心かつ実も蓋もなくやったというだけの話である。世間は「改革を怠って既得権益に安住した」歴史も実績もある大企業をボロクソに批判してきた一方で、「資本拡大のための資本獲得のみに邁進する」ライブドアのような危なっかしい新興企業に対しては、不思議なくらい甘かった。その理由はやはり堀江が「既得権益がゼロ」であること、少なくともそのことを看板にしてきたことにあったように思う。何の組織や既得権益にも守られていない、むしろ組織や既得権など一時的な仮構物であるかのように扱ってきたことが、安定した権益や組織というのものがほとんど消失しつつある現代社会の趨勢と、見事にマッチしたのではないかと思われる。

堀江は散々なバッシングに遭っているが(それ自体は当然だとしても)、上記のような堀江の「哲学」は1990年代以降の社会的な趨勢の中で作られたものであって、決して堀江個人に特有なものではない。だからこそ彼のような「異端児」が社会的に容認され、拍手喝采を送る人も少なくなかったのである。ちなみに私は、以上の堀江「哲学」はごとごとく間違ったものであり、社会的な秩序や安心にとってほとんどマイナスなものでしかないと考えている。証券取引法に違反したことだけを問題にして、こうした「哲学」を延命させるような、単なる堀江バッシングに終わらせては決してならない。