堀江は虚業家か

堀江前社長が「虚業家」などと今更の如く批判されている。そんな1年前にわかっていた周知の事実をここぞとばかり得々と喋る人たちは、「私は心の中では戦争は負けると思っていた」などと弁解を重ねた、敗戦後の知識人のメンタリティからさほど進歩してないことを痛感させられる。

堀江のことを虚業家という前に、先にも書いたようにこの5、6年の間に企業とは「虚業」であるべきだ、虚業と言う言い方に問題あるのならゼロであるべきだ、という議論は世の中の大きな潮流だったことを忘れるべきではない。つまり企業は高度成長期に積み上げてきた既得権益に安住することなく、リストラだの実力主義の導入だの新しい事業への開拓などを行うべきであり、護送船団方式年功序列は時代遅れで、既得権益を温存して経済を硬直化させている制度だと言われてきた。つまり企業は安定した何かに踏みとどまり続けるのではなく、競争社会の中で不断に自己革新し続けなければグローバリゼーションの経済競争の中で生き残れないと、叱咤されつづけたのである。これは政治の世界でも同じで、この10年のあいだ「しがらみのない政治」「既得権益の打破」という言葉が政治家の口から聞かれなかった時はない。つまり、経済人も政治家も既存の資源に頼ることのない「ゼロ」の存在でありつづけるべきだと、あらゆるジャーナリストや評論家などから言われつづけてたし、また彼ら自身も「いかに既得権益がないか」を誇るように語ってきたのである。

堀江が飽くことなく企業買収を繰り返し、投資につぐ投資を行いつづけたのは、「企業人はゼロであるべきだ」と言う、こうした近年の社会的趨勢に積極的に乗っかったことの帰結なのである。世の中のいわゆる「勝ち組」になるためには一瞬たりとも「既得権益」を作らないこと、現実に踏みとどまらずに拡大・成長し続けているというイメージを人々にもってもらうこと、堀江は1990年代後半以降に「反既得権益=ゼロ」が世間的に賞賛されているという現実を的確に観察して、以上のことを確信したに違いない。堀江が逮捕されてから「額に汗して働くべきだ」などということがさかんに言われはじめているが、むしろ、どう見ても彼は働きすぎである。ライブドアが「ゼロ」であり続けるために、企業買収、投資、株の分割、選挙など一瞬たりとも休むことなく走り回りつづけたが、真似できる人間はITベンチャーの中でもそうそういないだろう。彼は決してかつてバブル期にいたような、株の値上がりや預金の利子で食っていた怠惰な人物ではない。

そもそも市場競争を原則とする資本主義社会には真の意味での「実業」はない、という当たり前の事実を再確認しておく必要がある。もはや売れなくなった製品を「創業以来のウチの実業だから」などという理屈で売りつづける頑固な企業主は誰も評価してくれない。特に技術革新のスピードが速く、広告産業や情報産業が主流となった現在は、地に足のついた「実業」などというのがなかなか(特に古い世代には)実感できない状態であり、世の中の変化をいち早くつかまえてそれに自分を適応させていく、頭の回転の速さとフットワークの軽さこそが求められている。堀江を虚業家というのであれば、現代社会の企業全般が「虚業化」しているのである。そもそも資本主義市場を基準に社会の在り方を考える思考様式そのものが根本的に問われていると言うべきだろう。