中華思想とシナ

最近「中華思想」という概念で中国の政治・文化を特徴づける議論が、中国の事情にも詳しいいっぱしの学者の書いた本で主張されていることが少なくない。言うまでもなく「中華思想」というのは「自己文明中心主義」の別名であって、端的に相手をけなしたり皮肉ったりする概念である。少なくともそういう文脈以外で使うと明らかに不自然であることは確かである。

そもそも中国の近年の政治的、経済的な影響力の増大と、それに伴う不当で威圧的な圧力全般の原因や構造を、「中華思想」という概念は説明しているのだろうか。しているわけがない。それは単に「中国的な自己中心主義」と言っているだけで、単に説明対象を同義反復しているだけでしかない。自己中心主義だったら世界に普遍的に存在するだけで、中国に特別なことではない。少し頭を働かせるつもりがあれば中学生でもわかることだ。どうして多くの人がこの概念で分かった気になってしまうのか不思議である。

中華思想という概念を便利に使いたがるのは、単に右よりの「反中」の知識人だけならわかりやすいが、必ずしもそうではないようである。つまりこういう概念に飛びつきやすい人たちというのは、「国と国とは平等であるべきだ」という教科書的な国際社会観が強固にあって、そうしたルールにそぐわない存在を問題化したいという、昔風の学級委員的なモチベーションが高いのではないだろうか。要約すると、(1)国の本質的な特性として説明されるとたちまち納得する、(2)国は全て平等であるべきだと考えるという、インター「ナショナリズム」の強い人たちなのだ。

これはさすがにごく一部だが、「シナ」という呼び方に執念深くこだわる人がいる。単に無視すれば良い気もするが、渡辺昇一による『紫禁城の黄昏』の新訳が全て「シナ」になっていて、さすがにこれには愕然とした。使っている人の理屈によると、他の国々はみんなチャイナと呼んでてOKなのに、日本だけが悪いと言われるのは差別であり、中国共産党に対する政治的配慮によってこうした差別を許容しているのは許しがたいと言うのである。これを批判する人は、「相手が嫌がっているものをわざわざ使わないでも」という言い方をすることはあっても、この理屈そのものを批判していないような気がする。そういう批判だと、「相手の嫌がることをしないのが本当の隣人なのか」という、もっと真っ当な理屈で返されてしまうだろう。

現在「シナ」という言い方をわざわざ使えば、「嫌中」「反中」であるという政治的スタンスを表明しているも同然であることは周知である(実際そうであるし)。こういう世間の空気と戦いたい、というのであれば賛成しなくもない。しかしだからと言って、全ての発言や文章を「シナ」で貫き通そうとする態度を当然なものと考えているのは間違いである。中国批判をしていない単なる歴史事実に言及しているだけの箇所でも、相手に「あっコイツは中国嫌いなんだな」と読まれてしまうだろう。それでも構わないと考えているとしたら、愛すべき反骨人間かもしれないとしても、読み手への達意を尊重する誠実な物書きとはとても言えない。それでも「シナ」を使うことの大義が強ければいいかもしれない。しかしそこで示されるのは、せいぜい教科書的な国際社会観でしかない。現実の国際社会が平等ではないことは当然だし、それが国の呼び方に反映されることもまた当然過ぎることである。

結局のところ、中華思想も「シナ」も優等生的な国際社会観に基く概念であるという点では、問題は同根である。皮肉なことに優等生的な国際社会観を批判する人自身が、「中国は国際社会のルールに則っていない」とそれこそ優等生的な議論を行なっている傾向が強い。中国(だけでは言うまでもなくないが)を観察するためには、国際社会というフィルターを一旦外してみることが必要であると考える。