続・耐震強度偽造問題と責任

「民間に任せればいい」というのが、この10年政治経済を論じるマスコミ界の常套句だった。

「民間に任せれば・・・」という人は、官僚がいかに仕事が遅く、既得権益を組織で防衛し、税金をムダに食いつぶしているかを批判する。最近この批判の口吻がますます激しくなっている。そこには「きさまらばっかり楽しやがって!」というルサンチマンの噴出が窺える。「小さな政府」の代表であるアメリカよりも公務員数が少ないのに、「日本は官僚に支配されている」という神話を再生産しようとする人々は後を絶たない。景気のいい時代は誰も問題視しようとしなかった「天下り」などが、日本社会の悪の根源であるかのように喧伝されている。「民間に任せれば」という思考様式は、こうしたルサンチマンを背景に支持が高まっているように思われる。

しかし今回の耐震強度偽造問題は、この常套句に再考を迫っている。そもそも「民間に任せれば」という人は、「官」の非効率性と硬直性を言い立てるばかりで、「民」と「官」線引きがどこにあるのかをちっとも説明しようとしない。簡単にこの線引きを説明すると、創意工夫や斬新な発想によって市場価値に差異を積極的に生み出せる領域は「民」であって、差異を生み出しようがない領域は「官」(もしくはそれに準ずる非営利組織)が担うべきなのである。今回の耐震強度偽造における根本的な問題は、そもそも耐震強度検査という市場原理にまったく適さない業務を民間企業に委ねたことにある。建築の安全検査は「厳しく正確に検査する」ことが至上命題であり、専門家が手間隙かければ誰でもできることであって、創意工夫によって市場価値に差異が生じる余地というのは基本的に存在しない。市場競争によって検査が速くなってコストが安くなるという利点もあるという人もいるかもしれないが、「厳格な検査」の前にそうした利点が否定される可能性は当然ながら肯定されなければならない。

市場原理を持ち込むと必ず安全性が犠牲になると言っているのではない。むしろ「安全性」が市場価値をもつことによって、結果的に建物の安全性が強化される可能性もあるだろう。しかしここで問題なのは、その時々の市場の風向きによって安全性が重視されるか、機能性やスピードが重視されるかが不確定になってしまい、これを住宅やマンションを購入する個々人がこの風向きを判定しなければなるなることにある。言うまでもなく、建物の耐震強度は市場の風向きにいかんに関わらず一貫して維持されなれなければならない。しかし、ここに市場の競争原理を持ち込むと、住宅やマンションを購入する人々にその都度「耐震強度は確かなのか?」を自ら判断しなければないという、余計かつ甚大な労力を強いることになる。その結果どうなるかというと、今回のような問題が起こった時に「建物の安全性くらい自分で調べろ!」という「自己責任」の論理によって、被害者が泣き寝入りさせられる可能性があるのである。実際、今回の問題でこうした主張をする人が、さすがに多数ではないが少なからずいることに驚いている。

つまり耐震強度検査を市場原理に委ねると、耐震強度の維持というそれ自体は個人によって選択不可能な社会的インフラに属するはずの問題が、ことごとく個人の選択の結果である「自己責任」になってしまう可能性があるのである。私が建築の検査は国家の責任で行なうべきだと主張するのは、国家官僚の検査のほうが厳格で安心できるということでは決してない。その理由は、先に述べたようにそれが市場価値の差異をつけられない業務であること、そして今回のような不祥事が生じた際の責任の所在、保証と後始末の主体が明確になるからである。今回は政治的決断で行政がこの問題に積極的に介入しているが、「民間と民間の問題」とあくまで開き直ることも可能だったはずである(事実、当初官僚はそうしたがっていた)。こうした可能性を残していることの恐ろしさを、国民はもっと真剣に考えるべきであろう。