耐震強度偽造問題における責任

姉歯という建築士による耐震強度偽造が深刻な問題になっている。

もちろん姉歯建築士の偽造が元々の問題なのだが、検査会社、建築会社の専門家が耐震強度という基本的な問題に「気づかなかった」と弁明しているのはもっと問題である。本当に気づかなかったとしても、それは偽造に気づいた国交省の役人のほうがはるかに優秀であったことを示しているだけである。今回は耐震強度という地味な問題においては、「民間」がいかに無能でやる気がなく、無責任であるのかをさらけ出してしまった形である。

この問題の一端は明白に「民間化」にある。民間化の問題は利益のために安全性を犠牲にするというよりも、責任の所在をかつての官僚主導よりも一層曖昧にするという点にある。堀江社長の言葉を借りれば、一私営企業は極端な話「駄目になったならまたゼロに戻るだけ」である。不祥事を起こしたら責任を取るよりも、破産宣告して「責任は感じてますが能力はありません」と宣言してしまえばいい。さらに企業はあくまで限定的な専門能力しか持っていないから、「ここまでしか責任はとれません」といくらでも開き直ることがいくらでもできる。

しかし行政はゼロに戻るわけにも開き直るわけもいかないから、「どう責任をとるか」をギリギリまで詰めて考えなければならない。国民からするとこの割り切れない態度が「無責任」に映ったりするが、国民も行政側も最終的な責任が行政側にあることは自明になっている。行政は無責任であるというイメージは間違いである。誰の目からも責任を負うべき立場にあるので、軽軽しく「責任をとります」と言えないだけであると考えるべきだろう。

不祥事のときに登場する行政責任者の態度と姉歯建築士の対応と比較すれば一目瞭然である。前者は冷や汗を流しながらのぐずぐずとした弁明にならない弁明をするが、そうしたぐずぐずさの中に悪や罪の意識がまだ感じられる。一方の姉歯建築士は「謝罪」と「責任」をさらさらと口にするが、彼が実のところ「厳しい競争社会でコストを考えればある意味で当然のこと。あんな偽造に気づかない検査会社や建設会社がどうかしている」と思っていることは、誰も目からも明らかである。彼は責任の重みを自覚していないというよりも、「一建築士でしかない自分にはこんな大きな問題の責任を取る能力もないし立場にもない」と(おそらく正しく)直感しているので、官僚が口に出すのを躊躇するような「責任」をさらっと言えてしまうのだろう。

結局のところ「民間でできることは民間に」という考え方は、何か問題が起こった際の責任の所在を非常に曖昧にしてしまう。特にこの考え方を原理的に徹底化されば、最終的には「ろくも調べもせず」マンションを購入した個人の責任に行き着かざるを得ない。つまり自己責任の貫徹=誰も責任を取らない(そもそも取れない)という状態が生まれるのである。今の小泉・竹中政権の「構造改革」は、彼らが意図しているかどうはともかく、明らかにこの方向性にある。「民間でできることは民間に」というのは、意地の悪い見方をすれば政府と官僚が負うべき社会的責任の重荷を民間に放り投げ、政府・官僚に向けられる非難を減少させる戦略なのである。

実際、今回の問題についてはこれが見事に成功していると言わざるを得ない。これには従来の官僚批判にもかなりの問題があっただろう。それは「責任」を追求・要求するものばかりで、責任を取るための権力や能力をどう再構築するかという議論を怠ってきたからである。結局官僚は突きつけられる責任の重みに耐えられず、それを民間に丸投げしはじめてしまった。

やはり耐震強度の検査といった、地味で基本的なインフラ管理に属する業務は行政がやるべきだろう。行政のほうが検査能力があるからというよりも、そのほうが不祥事に対する責任と補償を強く要求しやすいからであり、後続の対策がどう取られたのかも追及しやすいからである。そのためにはやはり、「民間でできることは民間に」などという考え方をこの辺で打ち切り、行政の責任能力を再構築するための取り組みをはじめなければならないと考える。