めぞん一刻

またまた唐突だが、最近『めぞん一刻』にはまっている。もともとあまり漫画は読んでないし、ステレオタイプ化されたイメージがあったのでこの名作を食わず嫌いで読んでこなかったのが、いざ読んでみるとこれがなかなか凄い。高橋留美子はSFギャグが専門で、この作品以降恋愛ものをほとんど描いていないようだ。何か分かる気がする。

第一に、ここで使った恋愛を盛り上げる手法が90年代以降に急速に古びてしまったのである。過去のために新しい人生を歩み出すのになかなか踏み切れず、世間体を気にしてしまう響子の躊躇や羞恥の表現がこの漫画の一つの売りである。しかし明らかに90年代以降には、こうした表現を真面目に描く雰囲気がなくなってしまった。周りの住人の様々なちょっかいや人の噂話が恋愛の重要なアクセントとして使われているが、これも近隣社会のリアリティが減少した90年代以降は使いずらい手法である。

近年は韓国ドラマを含めて「純愛」ブームだが、『めぞん一刻』はそういうものとは完全に一線を画する。好きかどうか、愛しているかどうか、などというのはこの漫画では全く主題とはなっていない。むしろ、好きとか愛しているとかを自覚することに対してかたくなに抵抗しつつ、様々な人間関係や事件の中で次第にその抵抗が和らいでいくというプロセスこそにこの漫画の魅力がある。しかし、90年代以降にこの抵抗を構成する要素が現実に発見しずらくなってしまった。「未亡人」などという要素も説得力は薄い。今の「純愛」ものに不治の病がよくでてくるのは、恋愛に「抵抗」する要素ががそれ以外になくなってしまったからだろう。

第二に、この漫画にはあまりに作者の感情移入がありすぎる。響子は最初は天然ボケのドタバタキャラで、たびたびドジを踏んだりヤキモチのヒステリーを起こしたりさせていたのだが、後半になるとその優柔不断で嫉妬深い性格を繊細なタッチで描写するようになっている。前半はまだ音無響子という一つの漫画キャラを描いているという感じがあるが、後半になるとそういう雰囲気はなくなってほとんど別の人格になったような感じさえ受ける。これは明らかに描いているうちに作者が響子というキャラにどっぷりはまって、自分と同一化しはじめたからだろう。推測して言えば、この漫画は作者が20代前半から30ぐらいの年齢のときに描かれたものであり、まだあやふやだった恋愛観や社会観などが徐々に落ち着いていった時期であったと考えられる。そのような作者自身の変化の跡が漫画にも刻印されているからこそ、この名作が可能になったと言えるだろう。めぞん一刻のような漫画をもう一度というのは、作者自身の人生を描けた「恋愛」をもう一度やってくれということである。それは無理であり、また一度きりだからこそこの濃密な漫画が出来上がったといえるだろう。

この漫画は計算しつくされているという評価もあるが、私は全くそうは思わない。むしろその場の成り行きで、感情の赴くままに描いているような印象がある。中盤までと終盤とではまるで別の漫画だし、一話ごとの出来不出来も結構はげしいものがあり、話をもたせるために不必要なキャラが登場したり、いつの間にか重要人物が登場しなくなっている。この漫画はまさに当時の漫画界の寵児であった作者の若さと勢いだけで描かれたのである。もし計算して描いていたのなら、もう一度めぞん一刻のようなラブコメを描いたはずであるが、結局それを現在に至るまでしていない(あるいはできない)のが証拠といえるだろう。