秩序はいかにして可能か

 唐突だが「秩序」というものについて考えてみたい。

 秩序が存在しているとは何か、というのは非常に難しいが、ここでは常識的に「不特定多数の他人が自分に物理的、精神的に害を及ぼさないことがそれなりに予期可能な状態」と簡単に定義しておくことにしよう。秩序という概念自体も中には疑う人もいるが、それは警察や官僚の強制的権力を思い起こすからだろう。しかし上記の意味でなお秩序が嫌だという人はよほどの偏屈者か強者であろうから、ここでは秩序が善であるということは自明の前提にして話を進めておきたい。

いかにして秩序が可能になるのかは、大きく言って三つの考えかたがある。

①一定の価値や理念を共有すること。
 これは一見分かりやすいように見えてそうではない。ある価値理念が真理であることをどうやって根拠づけ、納得させることができるのか、特にこれだけ価値観が多様化した時代に、そもそも価値理念共有することなんて可能のかという重大な問題が残ってしまう。結局こうした考え方は、既存の支配的な価値を追認、拡大するだけではないのかという批判が避けられない。

②「話し合い」の場を設けること。
 こうした疑問に対して、「話し合い」によって価値理念の正統性を人々の間に納得させ、確保するという新たな解決策が考えられる。現代社会ではこの解決策が選択されることが多い。しかし、これは結局①の問題に戻ってしまう。「話し合いはよい」という考え自体が疑いもなく一つの価値としか言いようがないからである。しかも「話し合い」に参加する能力は人にとって偏差が現実にあるが、参加したくない人だって一定数いるはずだが、これをどう解決するのか。結局のところ、「話し合い」という場に参加させるための価値を、いかにして共有すべきかという問題をまた考えなければならない。

③法律などの制度設計をすること。 
 価値を人々を共有させるなんてことは、しょせん無理なんだから、放棄したほうがよいという考え方もある。つまり、秩序が実際に形成されるような制度を設計し、その制度を誰に対しても透明かつ公平な形で首尾一貫した運用をするというものである。ここでは価値の真理性うんぬんよりも、制度設計とその運用の首尾一貫性、公開性が重視される。しかし、こうした「価値中立」的な考え方自体もやはり一つの価値であることは免れないし、大体誰が制度設計をするのか、制度への関心や信頼をどうやって確保するのかという大問題が残ってしまう。結局のところ価値統合が必要だ、という①の問題へと戻ってしまう。
 
 このように、どこまでいっても秩序問題が解決しないのは、おそらく①における暗黙の前提が間違っているのである。つまり、価値を共有する=秩序という前提である。ナチス時代のドイツや文化大革命期の中国は比較的価値統合が高い状態だったと言えると思うが、秩序が存在していたということにはならないだろう。日本は比較的秩序が高い国だといえが、一体全体どんな価値を共有しているのだろうか。日本人は誰も説明できないだろう。むしろ常識的に考えても、対立というのは一つの価値を共有する(しようとする)からこそ起こる場合も多いのではないだろうか。また②の「話し合い」も、政治決定のプロセスの透明性は増大するかもしれないが、それ自体が秩序を生み出すかどうかは結局のところよくわからない。③の制度設計にして、価値の共有が社会の複雑性によって不可能になっているのに、その複雑性に抗して秩序をもたらす制度を設計可能なわけがないだろう。

 具体的に考えてみよう。アメリカがイスラム諸国の反米主義をなんとか変えて友好国にしたい、と思っているとしよう。最初「普遍的な価値である自由と民主主義を共有しよう」と言えば、「あなた達の言う自由民主主義は必ずしもわれわれにとって普遍的ではない」と答えられてしまう。「では話し合いの場を設けて自由と民主主義について話し合い、お互いの誤解を取り除こう」と言えば、「あなた達が勝手に設定する話し合いなどには簡単に応じられない」と答えられてしまう。「ちゃんと国際法の枠組みに則ってやるから」と言えば、「それは結構だが、われわれの不満や要求は国際法うんぬんとは関係ない!」と言われてしまうだろう。最終的にお互いとも、「こんなわからずやどもとは戦争するしかない」という思いを強くすることになる。

 結局のところ、お互いに価値を共有して理解し合わなければならない、あらゆる人を平等かつ公平に扱わなければならない、という考え方そのものに重大な欠陥が潜んでいるのではないだろうか。この考え方の根底にあるのは、「自分と他人が同じものを共有していないと安心できない」という観念である。これは結局のところ、他人に自分が有しているものと同じ価値や制度を強制するという契機を避けることができない。むしろ現実に秩序が存在するのは、こういうものをどこかで断念しているからではないだろうか、と個人的には考えている。