総選挙から一週間

小泉自民党が大勝した総選挙から一週間が経った。

解散総選挙が決まった直後は、正直言って「小泉も終わったな」と思っていた。どう考えても解散総選挙という、それ自体莫大な税金を使い、政治的な空白を作る行為を、郵政民営化というほとんどの国民にとってはどうでもいいい話題でやってしまったことに、さすがに国民もあきれ果てだろうと私は確信していた。ポピュリズム、空虚なパフォーマンスという批判は、普段はよくない批判の仕方だと思っているが、今回はそうした表現に違和感を全く感じないくらいだった。

今回の問題は国民がこのポピュリズムに踊らされた、ということではない。テレビも新聞も、そこに登場する知識人も、小泉首相のパフォーマンス先行型選挙を冷ややかに論評していたし、そんな批判は有権者にとって折込済みだったはずである。問題は、「ポピュリズムだ」「国民は踊らされている」「空虚なパフォーマンス」という批判そのものが、ほとんど力を持たなかったことなのである。つまり小泉首相の底の浅さを暴露的に批判する、それ相応に根拠のある意見を、国民は「くだらない!」と一喝したのである。

多くの討論番組で、議論で勝っていたのは明らかに民主党だった。特に最も国民の関心事であったはずの年金問題については、段違いに民主党に軍配があった。しかし国民は民主党に投票しなかった。馬鹿だからでは決してない。政策の中身について議論をして相手を論破する、という姿勢そのものを評価しなかった、すくなくともその意義を理解しなかったのである。これは重大である。政治討論の意義が、少なくても選挙で勝利するに当ってほとんどないことが(昔からそうだとも言えるが)明らかになってしまったのであるから。

民主党の代表選挙では、実績、能力のある人物ではなく、危なっかしいが清新なイメージのある人物が選ばれた。現実の壁を直視しながら手堅く大過のない政治ではなく、現実から目を背けてひたすら「改革」のイメージを再生産しつづけるだけの政治に、日本全体がなりつつある。郵政民営化だけで誕生した巨大なポピュリズム政権そのものは、イラク自衛隊派遣問題や憲法改正、東アジア外交など、郵政の百倍は微妙かつ深刻な問題を前にして再び分裂する可能性が高いだろう。問題は、今回の小泉首相の手法を政治家がこぞって真似するようになり、「新鮮である」「わかりやすくて筋が通っている」「断固とした姿勢がある」こと自体が政治の目的になってしまうことである。

しかし、いまだに小泉自民党が勝利した理由がよくわからない。ただよくない方向に進みつつあることだけは確かである。