現代日本の社会主義

 最近民主党の分配政策について、自民党エコノミストなどから「社会主義」的だという批判の声をしばしば聞く。それ自体は単なるレッテル張りでしかないし、また増税策を回避しているからそう言われても仕方のないところがあるが、そこで気になるのは、しばしば「社会主義体制は働かなくても食えるので経済が停滞してしまった」と理解されていることである。

 私のこれまでの常識的な理解はそうではなくて、社会主義体制では「いくら頑張って働いてもそれが評価されることがなかった」から、働くことへの積極的な動機がなくなり、経済が停滞してしまったのである。一党独裁社会主義体制では売り上げを伸ばすために頑張って働くことは、下手したら「資本家の手先」としてブラックリストに載りかねなかった。

 今の日本で社会主義的なものを見出すとすれば、いくら頑張って働いても評価されることのない「ワーキングプア」や低所得正社員層だろう。彼らの働く風景に漂う重苦しい閉塞感は、かつての社会主義体制にあった閉塞感を思わせるところがある。経営者や上司に一言意見しようものなら、ブラックリストに載って簡単に首になるところも似ている。違うのは目一杯働いていることだけである(社会主義も政治イデオロギー的には労働を強制していた)。

 それにしても、社会主義を批判しているわりには、「働かなくても食える」という、ずいぶんと牧歌的な理解しているのが少し驚きである。本当に牧歌的であればよかったのだろうが。

(11/3)

 ちなみに自明のことだと思っていたが、ここで「社会主義」と言っているのは、現実にあった社会主義の政権・体制のことであって、思想・理念のことでは全くない。「本来の○○はそうじゃない」という批判の仕方がよくあるのだが、個人的にはあまりよくない批判の仕方だと考えている。

日本型新自由主義

郵政問題について、私は詳しいことは何もわからない。かんぽの宿の問題にしても、「民営化ってそういうことじゃなかったのか?」ということでしかないし、新しい社長が批判されている理由もまったくわからない。正直なところ、週刊誌の芸能ネタの域を出ていない。今回の人事は、そもそも「天下り」「渡り」の定義の範囲外だと思うけど、そうだとしても何が悪いのか、そんなに激怒すべきことなのか、やっぱりよくわからない。実際見たわけでもないのに、どうして「陰謀」「利権」を全て見通したような態度をそんな簡単にとれるのか、これは昔からわからない。

そもそも郵政問題は、それ自体は全然たいした問題じゃないと思うし、あまり関心もないのだけれど、「日本型新自由主義」とは何だったのかを総括するという意味では重要な題材である。

90年代以降の自民党が奇妙だったのは、新自由主義型の政治家と、理念的に完全に対決する利益分配型の政治家とが、緩やかに共存してきたことである。実のところ、自民党の支持基盤で新自由主義勢力はごく一部であり(ただテレビでは目立っていた)、公共事業による分配と「日本的経営」の雇用保障に利害関心を持つ人たちが圧倒的多数だった。

新自由主義者は、「セーフティネット」の重要性についても口にしてはいたが、自民党の中でほとんど政治的なテーマとして掲げられてこなかったのは、ここに理由がある。つまり公共事業による再分配と日本的経営による「企業福祉」が、「セーフティネット」の代替物になっていたので、再分配政策を増税による公的なセーフティネットの強化ではなく、公共事業や企業の体力強化という方法を選好したわけである。

新自由主義勢力も、そもそも再分配それ自体にあまり関心がないので、こうした「旧体制」に暗黙のうちに乗っかっていた(表面上は批判していたのだが)。実際は、彼らは「旧体制」の日本型福祉の強固さを最大限強調し、日本があたかも「大きな政府」であるかのようなイメージを喧伝することによって、セーフティネットの構築や増税論議を先送りできることを正当化してきたのである。彼らはつい最近まで、日本に貧困問題があるということ自体に否定的であったが、そこには「旧体制」のセーフティネットの強さに対する奇妙な幻想があったように思う。

今日本で起こっている問題は、ほとんどこの新自由主義と「旧体制」との野合・癒着の帰結によるものであると言っていい。今から振り返ると、2005年の郵政解散選挙は、日本の新自由主義化の極点というよりも、この野合を解体した(それによって自民党の強みが失われた)という点に意義が求められるべきかもしれない。

郵政問題について

 郵政問題についての批判を見ていると、民主党政権に変わっても、やっぱり世論はまったく変わっていないという感を強くする。

 2005年の郵政解散選挙で自民党に投票したが今回は民主党に投票した、という人たちには、小泉・安倍政権の「新自由主義」的な政策の帰結を見て態度を変えたという人も一定数はいるかもしれないが、それ以上に福田政権以降の利益分配政治復活の動きに否定的な人たち、つまり潜在的には「改革」の徹底化を望んでいる人たちがやはり大多数であったように思われる。

 見ていると、その人が「既得権益」が持っているかどうかということが、あらゆる世論における政策の判断基準になっていて、そもそも郵政民営化が適切だったのか否かとか、民営化スキームを維持すべきかどうかという、基本的な問題が一向に語られない。私は郵便局は赤字であろうと住民の必要に応じて設置されなければならず、鉄道に対するバスのような代替インフラもないので、そもそも民営化は不適切である(公営のままでの効率化をはかるべき)という立場だが、そういう話が全く出てこない。そういう話ができるはずの竹中平蔵ですら、今回の人事を「渡り」だとかいう批判に矮小化している(彼自身が派遣業界の会長に「天下り」した矛盾は措いておくとしても)。

 意見は対極である西川前社長と今度の新社長が、同じように「利権」云々という物言いで批判されている。私は財界か官庁の大物には、それなりに「利権」と呼ばれる黒い部分はあるだろう、ということしか言えない。経済や政治に手垢のついていない人物に、地方自治体の首長ならともかく、郵政のような専門性の高い重要な仕事を任せられるわけがない。そしていろいろな報道を見る限りでは、西川前社長と今度の新社長の双方に、そこまで激怒しなければいけないほどの巨大な「利権」があるようにも思えない。

 小泉政権の時代にはじまったことではないかもしれないが、「既得権」それ自体への批判が政治化する傾向がますます強まっている。「政治家にビジョンがない」と嘆く人は多いが、ビジョンの形成を妨げているのが、こういう非生産的な「既得権」批判の世論であることは強調しておきたい。

増税論

台風で暇になったので、何度も触れてきた「増税」論について。


 国際比較で見ると、日本は税金と社会保険を足した国民負担率が低く
http://www.mof.go.jp/jouhou/syuzei/siryou/020.htm)、
GDPに占める税収の割合も低い。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5105.html

 消費税は先進国では有り得ないくらい低い。消費税というのは基本的には、高度消費社会を実現した先進国向けの税制だと理解しているが、ついに中国や韓国よりも低くなってしまっている。
http://www.mof.go.jp/jouhou/syuzei/siryou/102.htm
 ただ軽減税率を採用している国では、日本よりも安い課税品目もある。
http://sumai.judanren.or.jp/seisaku/page05-05/world02.pdf

 所得税は税収全体の割合が明らかに低く、累進率が国際標準よりもやや高めである一方で、課税所得最低限水準も低いという特徴がある。
http://www.mof.go.jp/jouhou/syuzei/siryou/028.htm

 唯一例外として、法人税だけが相対的に高く、しかも近年の傾向としては額が伸びている。
http://www.mof.go.jp/jouhou/syuzei/siryou/084.htm
 しかし、社会保険負担と併せてみると明らかに低く逆に個人負担が高い。(http://d.hatena.ne.jp/zundamoon07/20080922/1222088011
だから、よくある「法人税が高すぎる」論は間違いではないにしても、これを指摘しないのは明らかに公正さを欠いている。


 これらのデータは、グーグルで関連語を検索すれば一発で出てくるような、しかも中学生でも(というか数字に極端に弱い私ですら)誤解することがまず有り得ないくらい単純明快なデータである。また、人によってはほとんど自明の基本的な知識だろう。それにも関わらず、こうしたデータはマスメディア上では、まずほとんど全く出てこない。よく社会保障給付の低さばかりがデータとして出てくるのだが、これは明らかに税や社会保険の負担が低いことと相関している。

 税金や社会保険に関する国際比較のデータだけをみると、日本は明らかに韓国やアメリカに似ている。しかし、韓国は日本とは20年の落差がある後発的近代化の社会であり、社会保障制度の整備もようやく金大中政権になってからで、最近の傾向としては税金も社会保障給付も右肩上がりで増えている。アメリカにいたっては、国民皆保険制度への反対のデモが起こるくらいの、例外的に個人主義イデオロギーの強い社会である。50年も前に皆保険や皆年金を実現し、少子高齢化の水準も世界一となり、政府に対する期待や依存も決して低くない日本のような社会で、税金や社会保険の再分配の水準が韓国やアメリカに近いというのは驚くべきことである

 いまの日本の政治で常套句になっているものが、「財源がない」というものである。実際、今の日本で起こっている社会問題の多く(というかほぼ全て)は、結局のところは財源の問題であると言ってもよい。選挙では「無駄を削れば捻出できる」と勇ましいことを言っていた民主党も、さすがに政権を獲得してからはトーンダウンしはじめている。テレビのコメンテーターが民主党を批判する常套句も、「財源はどこに」である。

 だから、「税金を先進国並みに上げよう」という話が盛り上ってもいいはずなのに、さっぱりその方向に向かっていない。むしろ、「安易だ」と批判されることのほうが多い(そういう人のほうが明らかに安易な大衆迎合なのだが)。これは、一般国民のレベルだけではなく、増税が国民の負担を全体として軽減することをよく理解しているはずの政治・経済の専門家でも同じで、「参加型政治」「地方分権」を語るときはやたらと勇ましいのに、増税の話になると「まあ最終的には・・」みたいに途端に声が小さくなってしまう。

 いま問題とされていることの多くは、消費税を1989年から20年かけて15%に上げていれば済んでいたと思われるものが多い。例えば、後期高齢者医療制度が激しく批判されているが、消費税なら高齢の年金生活者も自動的に負担することになるから、こうした誤解を招きやすいややこしい制度の導入は必要なかったはずである。世界で突出した水準である赤字国債額にしても、よく「次世代へのツケ」と批判されているのだが、これが増税の代替策として採用されてきたことは普通に考えれば理解できることであり、まさに増税回避の世論が「次世代へのツケ」となっているのである。

 日本では、税金と社会保険負担が低いから給付も低いという、これ以上ないくらいの単純な話を無意味にややこしくしている人があまりに多すぎるように思う。規制緩和による企業の体力増強で税収をアップできるという、「構造改革」の論理を支持する人はほとんどいなくなったが(相変わらず声は大きいのだが)、かえって週刊誌レベルの官僚陰謀論や過剰な「無駄削減」論の横行は、ますますひどくなっているような気がする。

フレクシキュリティについて

昨日の補足というか続き。

フレクシキュリティというのは、素人なりの雑感として、確かに理念としてはよいような気もするし、将来的な方向性はこれで間違いないのだろう。しかし、今の日本でフレクシキュリティをそのまま導入するというのは、やはり利点よりも弊害のほうが大きいような気がする。それは、労働者代表組織の力が、日本ではあまりに弱すぎるからである。

労働者代表組織の力の弱いところでフレクシキュリティを導入すれば、経営者の側に「どうせ政府が救ってくれるんだからどんどんクビをきればいい」というインセンティヴが高まり、結果として賃金の切り下げ競争に拍車がかかることは目に見えているのではないだろうか。日本で労働者の整理解雇があまり安易には行われず、退職金なども非常に手厚かったのは、従業員が生活をほぼ全面的に企業組織に依存してきたためであり、だから依存性が弱まれば経営者のほうには雇用を維持するためのインセンティヴはなくなってしまう。

だから濱口先生の説明に従えば、フレクシキュリティのためには、経済政策における労働者の発言権を高めていくことがまずもって第一であって、フレクシキュリティというスローガンが先行することには危険性が大きいと考える。「ブラック企業」のような劣悪な労働環境は、セーフティネットを手厚くすれば自然と消滅するかのような意見がところどころ散見されるが、私は必ずしもそうは思わない。

ところでモリタク氏のフレクシキュリティ論をめぐる批判で思うのは、ヨーロッパの雇用などについての知識は、大学の図書館で専門書を引っ張ってこなければ入手できない(また読んでも細かい制度の説明が多くてポイントがつかみにくい)ところがあり、だから中途半端な「専門家」が、素人相手にいい加減なことを言えてしまうことである。だから、私はこの手の「専門家」には必要以上に気をつけるようにしているが、モリタク氏もそしてモリタク氏を批判する人たちにしても、もっと緊張感をもった議論を望みたい。

労働規制緩和論者が鬼の首を取ったようにモリタク氏を批判しているようだが、

http://mojix.org/2009/10/04/jakusha_dashi_business
http://blog.goo.ne.jp/jyoshige/e/a2ff26e6e8eccf5cd7160275f82aeea7

一見真っ当な批判のようにも見えるが、濱口先生の文章で目が鱗。

さらに、拙著でも一項目当てて解説したように、デンマーク型フレクシキュリティとはマクロレベルの労使合意でもって政策を作り動かしていくというコーポラティズムの極地ともいうべきシステムを前提としており、フレクシキュリティという言葉を労使決定システム抜きに語ること自体が詐欺師的行為というべきなのですが、そういう真に批判すべき点がすっぽり抜け落ちてしまいます。

経済財政諮問会議や規制改革会議から労働者の代表を排除し、「ソーシャル」な政策を憎悪し続けた竹中平蔵氏にデンマークモデルを口にする資格があるのか、というのが真に問うべき彼の罪であって、そこのところを見逃すような責め方は、一見全否定でかっこよさげに見えますが、実は竹中氏の真の罪を免責するものと言うべきでしょう。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/

経済財政諮問会議や規制改革会議から労働者の代表を排除」というところが重要で、そもそも労働組合を敵視あるいは軽視する人たちに、「フレクシキュリティ」を語る資格などないのである。産業民主主義の弱いところで、フレクシキュリティをやることは確かに弊害のほうが大きいだろう。

そもそも「弱者をダシに儲けている」みたいな批判は、左派に対する古典的な批判で、当たっている面は確かにあるが、「またか」という感じも否めない。そもそも、「弱者をダシに儲ける」人がいてもいいと思うし、それで実際に弱者が救われるような筋道を考えるのが、経済の専門家の仕事であるような気もするのだが。

金融日記:みんな亀井静香を甘く見ない方がいい

http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51590683.html

亀井氏が正しいのか間違っているのか、知識がないので判定のしようがないのだが、なんというか金融の専門家たちが鼻で笑って馬鹿にする風景は見てて腹立たしいものがある。

それでわかったのだが、いわゆる官僚政治の醜い部分ってこういうところなんだと。大臣がいろいろと要望を出しても、専門家である官僚が「何も知らない馬鹿が」と鼻で笑い、表面上は従いつつ、適当に誤魔化して結果として骨抜きにする、と。そして、どうせすぐにやめるんだろうからと、真面目に議論する気もない。

亀井氏を批判している経済の専門家たちの態度は、ほとんどこれである。政治家というのは、今の経済制度そのものが歪んでいるから直さなければいけない、と言うことのできる権利があるというか、その役割がある。現行の経済制度の永続性を前提に、それに反する論理を全て一蹴するのは官僚のやることである。

いつも思うことだが、経済を語る人って何でこんなに官僚主義的なんだろうか。本当の官僚なら現実の社会を背負っているから仕方のないところがあるが・・・。