この変わらなさに唖然

竹中
「派遣は増えたが正規雇用は殆ど変わらず労働者の権利が守られない「請負」が減った。2004年、2005年は派遣に変えなかった。偽装請負の批判が出て、派遣が始まった。
日本の司法が誤った解釈をした。政府は正規と非正規が平等になるように改革すべきだ」

竹中
「日本は世界の負け組みになろうとしている。一人当たり所得は19位。規制緩和をもっとやるべきだ。小泉内閣規制緩和をしようとしたが反対にあってそんなにしていない。やったのは「不良債権処理」と「郵政民営化」だけでその他は不十分だ」
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/db6538016accbdf3ff4d3622a7382a0e

別に竹中平蔵を批判するのが目的じゃない。彼の主張のあまりの「変わらなさ」に驚いているのである。

私は前に、意見にブレなさ過ぎる人は信用しないと書いた。というのは、まともな神経を持っている人間であれば、そんなことは絶対に有り得ないからである。10年もの間意見にブレがないというのは、その間の時代の変化を「みなかった」ことにし、その間に投げかけられたであろう批判を、すべて「聞かなかった」ことにしなければ、およそ有り得ないのである。

現実の壁や限界とぶつかって、それまで抱いていた考え方を反省して修正されていく、様々な人の批判に接することで、自分の議論をよりよいものへ高めていこうとする。別に学者じゃなくたって、多くの人々が日常的に、そして潜在的に執り行っていることだし、また人間として一般的にそうあるべきだろうと思われる。

この数ヶ月竹中の言説にアンテナを張ってきたが、それは別に批判したいがためではなくて、自分で認めるかどうかはともかく、「どう変わるのか」をみたかったからである。いくらなんでも変わらないはずはないと、さすがに考えていたのである。しかし本当に驚いたというか、心底唖然としたのは、何を読んでも何を聞いても、彼は全く「変わっていない」のである。彼の物言いは、いまだに「一億総中流」の観念が依然として生き残っていた、1990年代の調子とほとんど同じなのだ。

その態度は「時代遅れの頑固者」とは全く違う。頑固者は時代の変化を認識してはいるが、その変化についていけずに強がり、周りから笑われてさらに意固地になるという、そういう人物である。そこには、現実の壁と懸命に格闘している姿がある。

言うまでもなく、竹中は2000年代半ばまでの経済政策の最前線にいた人物であり、まさに嫌になるくらいに様々な批判や現実の壁に直面してきたはずである。その政策の当否以前の問題として、彼はそうした現実の壁や批判から何も学ばなかったのか、というか何も学ぼうとしなかったのか、そのことに驚かされてしまうのである。別に学者だからというだけでない。普通の良心や羞恥心の持ち主であれば、予想もしなかった世の中の大きな変化に戸惑い、そこから何かを学ばずには不安でいられないはずなのである。竹中はどうして不安にならないのか、不思議でならないのである。

竹中に対する多くは感情の批判のほとんども、その経済理論ではなくて、「医療崩壊」や「貧困」という問題を前にして「規制緩和」を平然と言ってしまえる、その「無神経さ」に由来していると言えるだろう。一部に「議論自体は筋が通っている」と擁護する「頭のいい」人を見かけることがあるが、私は彼が現実政治を動かしてきた人である以上、この無神経さだけでも十分批判に値すると考える。