チベット問題と日本の言論

世界では「北京オリンピックをボイコットしろ」という声が、普段はごく「リベラル」と思われる、著名な映画俳優や文化人から多く出ている。日本ではどうかと言うと、これが不思議なほどいないのである。今日の朝日新聞の社説なんかが全く典型的だが、中国のチベット政策を型どおりに批判しつつ、「五輪は政治とは切り離せないが、成功させるためには、政治に引きずり回されないようにする知恵が必要だ」という、「だからその『知恵』が何なのかを知りたいんだよ!」と突っ込まざるを得ないような無内容な論評が全く多い。

中国政府がチベットで何をやってきたのかをか知らぬ者は誰もいないし、これからも改善に向かう兆しがあまりないことは、今回の事件ではっきりしてしまった。だから本来なら、「政府首脳が北京五輪の開会式に出席すべきではない」という声が(私もこの意見だが)、政治家やマスメディアといった公的な言論において、一定数の力を持っていなければならない。ところが、なぜかそうなっていない。マスコミのコメンテーターは、「ひどい」とか「怖い」とか眉を潜め、周りの仲間と「本当に五輪開催の資格があるのか」と中国の悪口を言い合いながら、肝心の具体的な態度になると何を言いたいのかよくわからなくなってしまう。教師や上司の悪口を仲間内で言い合いながら、誰も教師や上司を真正面から批判しようとしない(そして上司たちの態度は一向に改まらないまま苦痛な時が過ぎていく・・・)という、われわれの日常風景の嫌な部分をあらためて見せつけられている感じである。

チベット問題で明快な態度を示しているのは、一部の右派論壇とネット上の言論であるが、残念なことに、こうした言論は粗暴な中国脅威論や中国崩壊論と密接にリンクしている。だから、もともと中国にもチベットにも関心の薄かった人は、必然的に中国脅威論に説得力を感じるようになっていくという構造がある。本来なら多くの点で左派的な心性に近いはずの平和主義者ダライ・ラマが、日本の政治的・言論的な状況では、思想内容的には全く相容れない右派に接近してしまっている。公的な言論機関で権力を握っているはずのリベラル左派は、あるドキュメンタリー映画一本が上映中止になっただけで「表現の自由の危機」と大騒ぎする一方で、チベット問題のような生々しい「人権弾圧」に対して明確な態度を示すことができない。こういう偽善きわまりない態度を続けていれば、国民のマスメディア不信は強まっていくだろうし、主流メディアの主張を真っ向から批判する右派の中国脅威論に自ずと接近していくことになるだろう。

もはやリベラル左派の掲げる「東アジアの友好」という(特に「国境を超えて」とかいう彼ら自身は何故か斬新で画期的だと思い込んでいる)スローガンは、「とにかく衝突を避ける」という態度に堕してしまっていることは、もはや否定できない事実である。現在の世界の情勢を動かすことがおよそ期待できず、むしろ維持する方向を強める建前論に誰が魅力を感じるだろうか。「平和裏に」「話し合いで」「世界が中国を見ている」などというのは、私に言わせれば「中国はもう暴れないでくれ」という哀願でしかない。中国政府の耳に届くはずもないそんな意味のない哀願をする前に、「中国の事情も理解すべきだ」「中国なりの正当性がある」と、積極的に現在の世論に抵抗して敢然と中国を擁護する意見を聞きたいものである。