小沢一郎と小泉純一郎

「大連立」の騒動で、小沢一郎が「国民を置き去りにした密室政治」と批判されている。もちろん仕方のないところもあるが、これだけ批判が多いと(そもそも福田首相にも同程度の批判があるべきなのだが・・・)、小沢のために一言弁護したくもなってくる。

私の観るところ小沢一郎は政治家としては比較的正直な人であり、自らの政治理念もはっきり著書や雑誌論文などで明快に打ち出している。むしろ、小沢一郎は自分を「公開」しすぎているようにも見える。彼が過去に表明してきた主張は、完全に敵対者が批判するためのネタとなっているし、先月『世界』に発表した論文もどちらかと言えば自民党の攻撃材料になっている。小沢が激しく批判されるのは、彼の主義主張の「公開度」が高いことの表れでもある。

逆に小泉純一郎元首相は、そのイメージとは逆に、「郵政民営化」以外は、何を考えていたのか未だによくわからない。小泉政権の「構造改革」路線は、1990年代後半に全て出揃っていたもので、小泉の独創でも何でもない。「造反議員」の復党を簡単に認めたように、言っていることや政策に一貫性がなく、常に肩透かしをくらってしまう(もっとも政治家としては悪いことではない)。まとまった著書や論文もほとんど書き残していない。だから批判しようも手ごたえが全くなく、「意見は同じですよ」「よく考えたいと思います」と簡単にかわされてしまう。別にこれは小泉だけではないけれども、「公開度」という点では小沢一郎のはるかに高いように見える。

小沢は日本国民の「民度」を真面目に高めようとしている。正しいことを一貫した論理で粘り強く言い続けていれば、そのうちにみんなが従ってくれるだろうと素朴に信じているところがある。だから自分の主張や信念を常に「公開」しようとする。しかし小泉は最初から、「民度」を高めることに全く価値を見出していなかった。郵政民営化ですら、まともな専門的な論文を発表してない。一見国民を愚民視しているのは小沢に見えるが、それは彼が自分の主義主張を、真面目に国民に説得しようとしているからである。しかも、小沢は自分の主義主張の水準を決して下げようとしないので、ますます愚民視しているように映るのである。しかし、実際のところ国民を愚民視していたのは、つまり「どうせ国民なんて馬鹿なんだから」と考えていたのは、明らかに小泉のほうであった。それに比べると小沢のほうが、国民の政治能力にあくまで期待しているようなところがある。

おそらく小沢が「豪腕」と呼ばれて忌み嫌われるのも、こうした啓蒙主義的な姿勢によるものと理解される必要がある。同じような「豪腕」タイプと見られる石原慎太郎だが、彼も小泉と同じで「どうせ国民なんて馬鹿なんだから」と考えるタイプであり、人を説得するときも個人的な体験を持ち出し、巧みな話術で人を引き込んでしまうことが多い。一方の小沢には、禁欲的なほど個人的な体験を話さず、冷徹なほど原理原則で説得しようとする。しかし民意を綺麗に汲み取っているのは、明らかに小泉や石原のように見えることも否定できない事実であり、小沢と小泉・石原と、どちらが「民主主義的」であるかというのは、実はなかなか難しい話である。