少子化の原因について
少子化の原因について素人なりに考えてみたので、忘れないうちに書いておきたい。
日本では少子化と「非婚化・晩婚化」は密接に関係しているらしいので、とりあえず一緒の問題ということにしておきたい。
(1) 生活の必要性がなくなった
こういう当たり前のことを誰も指摘してない。「若者は金ないから結婚しない。だから就業機会を」という人もいるが、どうか。むしろ根本的な問題は「生活上の必要性がない」「結婚するとむしろ経済的に苦しくなる」などなどだろう。昔の人が結婚するというのは、農業や商売などの家業を手伝ったり、家業をつぐ後継ぎを必要としたり、あるいはサラリーマン家庭なら夫の働いている間の家事を請け負ってくれたりということだった。つまり結婚すると明らかに生活が「楽になった」のである。
しかし、今は家を継ぐという意識は完全に減ったし、サラリーマンにとってのネックだった家事そのものの負担が格段に低下した。 これは単に、家事用品が便利になって廉価な外食産業が発達したというだけではなく、近所付き合いの減少がおそらく最も重要である。生まれたところで死ぬということがまだ多かった昔は、隣近所の付き合いによる相互の助け合いがなければ生きていけなかったわけだが、今は大学生になって家を出れば二度と実家には戻らないという若者がほとんどで、住んでいるところは単に寝泊りするという以上の意味をあまり持っていない。近隣社会における「孤立」を恐れる必要がなくなった、ということは別に一人暮らしで昼間中家を明けといても、十分に社会生活を営めるということなのだ。
(2) 結婚の社会的圧力がなくなった
今はお見合い結婚というのは1パーセントにも満たないらしいが、団塊世代にはごく普通のありかただった。お見合いじゃないとしても、近所のおばさん連中や上司に促される形で、職場の同僚や昔からの知り合いと結婚するのが当然だった。比較的メンバーが安定していた昔の地域社会や職場は人格的で情緒的な社会関係があり、若い人の結婚の世話をすることは上の世代の当然の義務であるという感覚が強かった。こういう社会を当然のものとして生きていれば、30過ぎても結婚しないというのはよほどの事情があるものと見られてしまい、かなり社会的に恥かしい思いをせざるを得なかったのである。
しかし、今の若い世代は分譲マンションにで生まれ育ち、地域社会や職場の付き合いが必要最低限なのが当たり前になった。ここには結婚を促す存在がいないし、またそういう存在がいたとしても社会的な基盤を欠いているので、単に「余計なお世話」「ウザイ」としか感じられないだろう。親戚が総出で参加したり職場の上司を呼んだりなどという昔は普通だった結婚式の風景は、今は比較的珍しい風景になっているし、まず誰もしたがらない。また30過ぎても結婚していない男女はいまやザラであり、女性は「負け犬」と自嘲できるようなって市民権を得、非婚は一つの生き方とまでは言わないにしても、特に社会的に恥かしいことではなくなっている。
(3) 選択肢が無限あるいはゼロになった
周囲が事実上結婚相手を決めることが多かった時代は、結婚相手の選択肢は限られていた。昔は昔なりに我儘を言う人は多かったにしても、周りが勧める相手がそう悪くなければ結婚を決断するしかなかった。出会いの場が相対的に限られていたので、結婚を意識する相手が出現すると「まあこの人でいいいや」という気になったのである。それに昔は結婚は相手が好きだから、気が合うからするというよりも、生活の必要上や世間体のためにしていたところがあるので、過剰に相手の良し悪しにこだわることはなかったと言える。
今は男女の出会いの場は無限であり、結婚前に不特定多数の異性と性交渉があるのはごく「普通」である。周囲も結婚相手を無理に勧めたりせず、「いい人がいれば」という自主性に任せる態度になっている。結婚相手が完全に個々人の自由な選択の問題になったと言えば聞こえがいいが、当然ながら人間の魅力には格差がある。ある人にとって「自分に合う」と思えるような相手は、たいていの人にとっては「合う」ような人であり、そういうモテる人間は膨大な選択肢を前にして「もっと自分に合う人がいるのでは」となかなか決断できない。モテない人間はどうかというと、言うまでもなくそもそも選択肢すらないという状態になって、結局は結婚のことなど考えないようになってしまう。つまりモテる/モテないの格差の両極に位置する人が増大したために、結婚相手をなかなか決断できないという人と、そもそも機会すらないという人が増大してしまったのである。
特に近年の若年層の経済格差の増大がこれに拍車をかけている。というのは、育ちも似てて話の話題も共有できる高校時代に机を並べていた同級生が、10年経って一方は年商数億で他方はフリーターや大学院生をやっている、などということは珍しいことではない。今「階級」という言葉が聞かれなくなったのは、経済格差と社会的・文化的な境界線が対応せず、またそれが流動化しているからなのである。一人の人間関係の範囲の中に、大富豪と収入ゼロの人間とが隣り合わせで存在しているので、もし女性が後者にプロポーズされたとしたら、「すぐ近くにもっと稼ぎのいい人がいるのに、あたしにばっかりなんでこんな」と、貧乏くじ引かされた思いに当然なると言えるだろう。
(4) 結婚の「リスク」が高まった
最後にまた身も蓋もない話をすると、結婚するとむしろ生活上の「苦痛」が増大するという観念が強まっていることにある。少子化が進んでいる一方でよく指摘されるように、一人一人の子どもに手をかけて育児をしなければならないという意識はかなり強まっている。「別に子どもは普通にそだてればいい」と言っても、今は幼少のうちから綺麗な服を着せて、大学まで行かせるのが「普通」である。子どもはお下がりの汚い服を着るものであり、頭がわるけりゃ中卒でも別に構わないと考える昔のような親は、今はほとんどいない。学費も団塊の世代に比べると10倍くらいになっていて、都会では私立中学に進学させるのが「普通」である。もし「普通」に子どもを育てたいと思ったら、少なくとも「普通」レベル以上の収入が当然要求されるし、またその要求を満たしたとしても収入の大部分を子育てに割かなければならないことは、いずれにせよ確実である。
介護の問題はもっと深刻である。昔は少ない高齢者とサラリーマンをしている多くの息子達、という図式が比較的一般的で、親戚付き合いも比較的密だったので、介護の負担感はかなり少なくて済んでいた。しかし今は下手をすると、閉ざされたマンションの部屋で仕事にもいかなければならない妻が、一人で二人の夫の両親を介護しなければならないという状態になる。病院や介護保険に頼るにしても、いずれにせよ経済的・精神的な負担は相当なものになる。おそらく結婚を考えてもよい相手が5人いれば、1人くらいはその両親に介護、痴呆、統合失調の問題を抱えている可能性は普通にある。結婚が「自由選択」になった以上、そういう相手が選ばれるということは(本人に相当の魅力がないかぎり)まずないといってよい。
このように少子化が進んだのは、豊かになった社会の中で個々人がより主体的に結婚相手を選べるようになった結果であり、某大臣が言っているような男女間の社会的な格差などではまったくない。現在は結婚しようとしたら生活レベルが低下することは、ある程度覚悟しなければならない。問題はそういう社会的な環境が厳然とあるにも関わらず、「結婚するのは当然」「結婚したら楽になる」という幻想が依然として強固なことにある。働く女性の育児負担の軽減(つまり結婚生活を楽にすること)を目指す現政権の方針は、こうした誤った幻想を再生産しているだけではなく、主にキャリア女性が対象になることによって結婚の「普通」レベルを今まで以上に上げてしまう危険性がある。
こんな馬鹿馬鹿しい少子化対策は一日でも早く撤回すべきである。それよりも少子化時代に見合う社会保障制度や税金、年金制度のラディカルな改革を早急に行なうこと、少子化対策を行なうにしてもキャリア女性だけではなく、キャリアップを目指せないような低賃金労働者やパート、家事手伝いニートなどのような、いわゆる「下層」の人々も視野に入れた対策にしていかなければならない。