中国の反日デモの原因をめぐって、あちこちの雑誌で意見が載っている。

その中で、『中央公論』で高原基彰、『世界』で園田茂人といった社会学者が、若者の間の「不確定性」や「アノミー」にその原因を求めている。巷に溢れる文章よりは全然面白いが、どうもピンと来ない。アノミーと言われて日本のことを指すのならわかるけど、中国の状況についても同じ言葉で表現するのはどうだろうか。そもそも、将来に対する不確定性など世界にありふれすぎているのではないか?その時に「反日」なのは単なる偶然でしかないというニュアンスも感じられたが、本当にそうなのだろうか?

どうも社会学者にしても政治学者、ジャーナリズム全般は、「背後に何か真の目的があるのでは?」という説に傾くきらいがある。「反日」はマルクス主義にかわる政府イデオロギーだとか、政府批判の隠れ蓑だとか、経済格差の不満だとかいろいろ言われているが、全て根本的なところでおかしい。今の中国人は共産党の言うことを鵜呑みになんかしないし、政府批判は限定された範囲ならいくらでも可能だし、デモに参加した人は基本的に都会の富裕層や学生らしき人々である。日本がターゲットになるのはある必然的な理由があると考えなければならない。

中央公論』で近代中国外交史が専門の川島真が厚みのある論考を書いていたが、日清戦争、五四運動、日中戦争とその「勝利」といった、「抗日」の物語がいかに中国人にとって正義と誇りを提供しているのかをもっと重視しなければだめだろう。中国で「愛国」を語るということは、ほとんどの場合は「反日」を語るのと同義反復である。背後に別の目的があるのではなく、日本の批判を通じて中国人としての正義や誇りを実現すること自体が目的だと考えるべきだ。「背後」への考察はあくまでこうした正義を前提にした上で意味があることであって、背後ばかりを問題にするのは本末転倒である。正義と感じられなければ反日デモへのモチベーションなど起こりようがない。

しかし、どうもそういう中国人の「正義」そのものを考察する論述は、川島を除くとまだ皆無に等しいように思われる。真正面からの批判は全然いいほうで、そのほとんどは、いかに中国が無知で非常識かという「皮肉」と「嘲笑」に終始し、日本人の間で隠微な内輪の共感を楽しむというものでしかなかった。「わかりませんねえ」「主権の問題ですから」という、茶化しや開き直りの発言を連発する小泉首相そのものがこうした気分を代表していると言える。「正義」を大上段に語る中国と「皮肉」「嘲笑」で応答する日本。日中間の軋轢の根源はここにあるのかもしれない。