国家を家族として考えるべき

国家は家族のようなものである、というと誤解する人が多いだろうが、これはいたってまじめである。この喩えは「国家は企業のようなもの」という、より流通しているモデルを批判するために用いている。

(1)企業モデル国家
 国家が企業のようなものであるというのは、国民が株主のようなものであるということであるが、この時点でこの論理は半分以上は破綻している。というのは、実際の株主は企業を自由を選択できるが、圧倒的大多数の国民にとって国家は自由に選択できるようなものではないからである。そして企業であれば、不採算部門や無能な労働者は切り捨てなければならないが、国家は医療や介護、生活インフラの整備などがいかに財政赤字の原因になっていようと、それらを切り捨てることは不可能である。さらに企業の業績は、一応は株価やバランスシートという客観化された指標で示されるが、国家の「業績」というのは「国民生活が豊かで安定している」というかなり漠然としたものであり、何か「業績」であるのかも時代によって変化してくる。経済成長率が高ければよい、財政赤字が減ればそれでよい、というものでは必ずしもない。以上のように、国家を企業をモデルとすることに、かなりの無理が生じることは明白である。

(2)家族モデル国家
 国家が家族のようなものである、というのは国家が肉親の愛情に基づく血縁共同体であるという意味で言っているのでは決してない。一昔前は純然たる「家事」に属していたような、たとえば出産、介護、育児といったものを、国家が税金を再配分することで肩代わりしているという意味である。昔の女性がいかに家事が不当な重労働あろうと放り出すことが絶対にできなかったように、そして三十も近いのに定職につかない息子や娘でも簡単に夜露に放り出せないように、国家は社会保障の役割を放棄することはできない。さらに稼ぎ手の夫が、給料の大半が家族のために消えていくことで不満をもつことなど有り得なかったように、国家はより多くの収入のある人により多くの税負担を当たり前のように課さなければならない。家族の中には貨幣に換算されない、膨大な無形の負担と「支え合い」が存在していたが、国家はそれを税金という形で公共化しているに過ぎない。

 以上のように、国家が企業なのかあるいは家族なのかは一長一短はあるだろうが、私は明らかに家族として理解したほうが、はるかによいように思える。国家を企業のようなものとして考えると、「増税」というのはイコール「負担増」でしかなく、財政赤字の原因は「経営効率が悪い」「行政の無駄が多い」ということになり、当然ながら従業員=公務員はリストラせよという話になってしまう。そもそも一見して明らかなように、企業モデルでは「最低限の生活水準の保障」という問題を全く考えられない。

 それに対して国家を家族として考えれば、増税はもともとは家族内部で処理していた負担を税金化・公共化しているだけのことで、必ずしも負担増を意味するものではない。むしろ「家事」を肩代わりしている公務員をリストラしてしまうことは、明らかな負担増につながる。財政赤字の問題も、従来の家族における男性労働者に当たる高収入の人々が、収入に応じた負担に応じていない、という以上の難しい問題では全くなくなる。

 国家の企業モデル化は別に日本に限ったことではないが、特に日本では「企業福祉」「家族福祉」の伝統が存在しているという前提の下に推し進められたため、大企業と銀行の体力増強を行う一方で、その収益を再配分するための制度の構築が先送りされつづけてきたように思われる。評判の悪い「定額給付金」というものも、そうした再配分の制度化を先送りしてきたことの負の産物以上のものではない。

 依然として、「どうして派遣やフリーターのような怠惰な連中のために、俺の税金が増えなければならないのか」という声が少なくないのが驚きだが、それが誤解であるという以前に、本当は再配分のための理由など全くいらないはずなのである。あえて誤解を招くような言い方をすれば、収入のある両親が無条件というか当然のように高齢の親と子供を養っているのと同じ理屈で、国家は富裕層から当たり前のように税金を再配分すべきではないかと考える。

 それにしても、ほんのついこの間まで「規制緩和が不十分だから」「既得権益を手放さない連中が」などと言っていた人が、ことごとく「転向」している姿には本当に驚きあきれている。転向するのが悪いとは全く思わないが(むしろしない人のほうが明らかに間違っている)、以前の言説を反省的に振り返ることなく、「昔から金融工学に批判的だった」かの物言いには、やはり納得できないところがある。