ようやく総中流が崩壊した年

のこり30分もなくなったが、今年一年を振り返ると、一言で言うと日本における「総中流」が完全に崩壊した年であると言えるだろう。

すでに2000年頃に『不平等社会日本――さよなら総中流』という題名の本が話題になってはいたが、それは若干話題性を狙った、「統計的には思い込んでいるほど総中流社会じゃない」という程度のものであった。「格差社会」論が流行し始めた2005,6年ごろになっても、「再チャレンジして正社員へ」という「中流」へ戻れることの幻想が根強く語られ、非正規雇用層に対する視線は冷たいままであった。今年なってようやく、というか皮肉にも金融危機が到来したことで、かつての「総中流社会」に戻ることは断じてありえない、ということが国民の一般認識になったように思う。

ここでいう「総中流社会」とは、団塊世代を中心として、官僚組織をモデルとした終身雇用・年功序列といった日本型雇用システムを中心に構成されてきた社会である。特に2000年代に入って以降、こうしたシステムそのものに対する攻撃がはげしくなっていった。利害関係においては多くが対立しているはずの財界と一般の国民が、奇妙なことについこの間まで「総中流社会」の枠内に留まっている人々を「既得権」として攻撃する点において共闘関係にあった。

元厚生事務次官の殺害事件で、血盟団事件との類似性を指摘する声がいくつかあったが、血盟団によって殺害されたのはあくまで財閥のトップと大蔵大臣であった。別に当然のことであるが、日本社会のなかで最も財力を有し、現実の貧困や格差を作り出す責任ある地位に就いている人が、憎悪と攻撃の対象になったのである。戦後に「財閥解体」がスムーズに進行したものも、こうした下地があったからに他ならない。

これに対して、秋葉原事件や元厚生事務次官の事件がきわめて奇妙なのは、「普通の生活者」が狙われたことである。そして両方の事件に対して、「殺人はよくないが・・・」を枕詞にした、少なくない共感者がネット上に溢れたことも特徴である。元厚生事務次官は一応エリートではあると言っても、いまや何の権力ももたないごく普通の生活者でしかない。少なくともその権力や財力は、血盟団で殺された団琢磨井上準之助などとは、比べものにならないくらいちっぽけなものである。

戦前の日本は格差社会というよりも、露骨なまでの身分社会であった。血盟団事件は、確固たる社会的な名声と権威を持って指導すべき特権階層が、農村を中心とする社会秩序の崩壊と貧困に対して全く無力、無関心であることへの失望とルサンチマンが根源にあった。

今おかれているのはこれとは異なり、1980年代に完成した「総中流社会」が、とくに90年代末以降に傾向的に崩壊し続けているという状況である。こうした状況におけるルサンチマンの矛先は、世の中がここまで流動化しているのにも関わらず、依然として何の将来の不安もなく、非正規雇用層を「見ないこと」にしながら「中流の生活」を平然と送っている人々である。あの赤木智弘が描き出したのも、そういう誰もが気付いているが、はっきりとは語られてこなかったこうした現実であった。

今度の金融危機によって、小泉政権時代のいわゆる「構造改革」「規制緩和」への批判が急速に高まり、かつて格差は経済活力の源泉だと言わんばかりだった人も、ことごとく「転向」するようになっている。しかし、「総中流」が復権するかといえば、それは明確に「否」であろう。血盟団ルサンチマンが明治以来形成されてきた身分秩序にあったとすれば、加藤智弘たちのルサンチマンは高度成長期に形成されてきた「総中流」の残滓に向けられている。身分社会がその後に復権することがなかったように、「総中流」が復権することもやはりあり得ないと考えるべきだろう。