「反日」「嫌中・嫌韓」は擬似問題?

高原基彰『不安型ナショナリズムの時代』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4862480195/qid=1144643138/sr=1-1/ref=sr_1_0_1/503-3470039-3536707

この本、結構面白くて勉強にはなったが、あまり納得はできなかった。特に前にも批判的に言及したが、「擬似問題としてのナショナリズム」という視点。「反日」「嫌中・嫌韓ナショナリズムには社会・経済的な背景があり、ナショナリズムを論じる際にこれをもっと重視すべきだというのであればわかる。従来のナショナリズムをめぐる議論に社会経済論が少なかったことは同感である。しかし「擬似問題に過ぎない」かのような言い方は明らかに誤っている。

なぜなら、社会経済的な不満のはけ口を、中韓日が揃いも揃ってナショナリズムに求めているのはなぜなのか、というこの本で明らかにされるべきもっと大きな疑問が残ったままなのである。社会経済的な不満がどうしてナショナリズム以外の語り口にならないのか、という根本的な問題を何も説明しようともせずに、どうして「擬似問題」の一言で片付けて納得できてしまうのだろうか。社会的な流動性に耐えられる「個人」が一般化していけば、ナショナリズムなど問題はなくなるというニュアンスも感じられたが、これも本当なのだろうか。結局読後の印象としては、「ナショナリズムは社会的流動性に対する不安の産物」というよくある(著者の師匠である姜尚中氏がよく言ってそうな)議論をまた読まされた、という感が否めないのである。

そもそも「ナショナリズム」とかを表題に掲げ、「反日」「嫌中・嫌韓」が生まれる理由を、社会経済的な構造の変化から明らかにすることが本の課題であるのなら、なぜナショナリズム自体については何も説明していないのだろうか。この本に限らず、日本の研究者はナショナリズムという概念を融通無碍に使う一方で、それがいったい何で、どうして生み出されるのかをほとんど説明しようとしない傾向がある。説明しようとしないということは、その概念の理解について著者は何も悩んでいない、あるいは読者の一般的イメージで特に問題はないと考えていると受け取ってよいと思うが、本当にそれでよいのだろうか。

この本で面白いのは、圧倒的に戦後日本の社会経済的な構造変動を論じている部分。正直なところ、この部分だけで本にして、現在の格差社会論に一石を投じる役回りを演じるべきだったと思う。「反日」「嫌中・嫌韓ナショナリズムに関する分析は、個々の事実は興味深いところがあるにしても、はっきり言って解釈は凡庸で証明不足である。「不安型ナショナリズム」という概念は何も説明していないと思う(乱暴に言えば、戦争や革命などがない時代のナショナリズムは、ほとんどこの概念を当てはめられる)。少なくとも「社会的流動性の時代を生きる東アジア―「反日」「嫌韓・嫌中」の社会経済的な背景」という題のほうが適切である。あまり売れそうな気がしないけど。

4/12 補遺

 この本の重要だが納得できない点で、従来の「玉突きモデル」が崩壊したと繰り返し書いてあるが、昔は本当に「玉突き」だったのだろうか。ナショナリズムの歴史の中で、「玉突き」で適切に理解できるのは、どの場所のいつの時代のナショナリズムなのだろうか。私はあらゆる全てのナショナリズムは、少し丁寧に理解しようという良識さえあれば、「玉突き」でないことくらい一目瞭然だと思う。そもそもナショナリズムは出現した当初から玉を突けるような硬いものではなく、自国に対するさまざまなイメージが不断に闘争しあっているというのはナショナリズム理解の初歩であり、また戦後日本を少し思い起こせば「日本」に対するイメージが必ずしも単一で固定的でなかったことは明白である。「玉突きのような理解する奴が多い」というのはわかるが、だとすれば重要な問題はそれが「玉突き」のように見えるために衝突を引き起こすという事実そのものであるはずなのに、この本の著者はそこを説明しようとせずいとも簡単に「擬似問題」扱いしてしまう。いろいろ批判を書き連ねたが、結局のところタイトルにある「いがみ合っている本当の理由」が全然わからなかった、説明しようとしているのかどうかもわからない、というただそれだけの理由である。