ポピュリズムの時代

大阪府橋下知事の支持率が84%らしいが、支持率が好感度調査のようなものとは言っても、これはさすがに驚いた、というか暗澹たる気分になった。

この橋下府知事に代表されるように、日本の民主主義がかなり機能不全になっているように思われる。民主主義のよい点(というか目指すべき点)というのは、(1)政治的に能力のある人物を継続的に政界に送り込むことができる、(2)草の根の国民の利害関心を丁寧に汲み取ることができる、という二点に集約することができる。

昔の自民党政治が磐石だったのは、地域に根を張った有力者がそのまま政界に進出し、またその政界のなかで派閥間の激しい競争に勝ち抜くというプロセスの中で、草の根の民意をより効果的に代表すると同時に、政治家としての能力が鍛えられていくというメカニズムが備わっていたからである。だから優秀な政治家というのは、地元の農家や商店街を日々駆けずり回って「民意」を体感している人であると同時に、政界の中で様々な一癖もある人たちを説得し、まとめる能力のある人のことであった。

1990年代以降、日本の民主主義の発展を支えてきたこのような政治は、「利権政治」「透明性がない」ものとして激しい批判にさらされてきた。さらに、自民党の支持基盤である地方都市の商店街や農家が衰退し、そういう場所を「駆けずり回る」ような政治では票が全く伸びないようになっていった。そしてこの頃から政治的影響力が強まったのが「内閣支持率」というものと、『サンデープロジェクト』に代表されるテレビの政治討論番組である。内閣支持率の重要性が強まって、「民意」がほとんど「好感度」と同じようなものになり、政治討論番組によって人の話をじっくり聞いてお互いに納得を深めるのではなく、相手の話を遮ってでも「歯切れよく」「わかりやすく」が「受ける」ようになった。『朝まで生テレビ』の出演者の心得は「人の話を聞かないこと」だそうであるが、あの番組を見たことがある人は誰もが納得するに違いない。

2000年代以降の自民党は、地元を駆け回って草の根の民意を嗅ぎ取るような政治では「選挙に勝てない」という現実に気付いてしまった。内閣支持率と「テレビ映り」が最優先になった。あの鈴木宗男は国民的には不人気であったが、地元の北海道では草の根の支持があった。その鈴木を小泉政権が冷徹に「切り捨てた」ことは、自民党政治の転換を示す非常に象徴的な出来事であったと言える。

これは自民党だけではなくて、左派系の政治勢力もほとんど同じである。例えば社民党は労働や雇用の問題に無関心になって、「女性」やNPOなどを前面に出すことによってイメージアップを図るようなった(結局逆効果だったが)。結果として、2000年代前半から実は大きく悪化していた非正規雇用の問題については、恐ろしいほど鈍感なままであった。

さらに小泉政権では、経済財政諮問会議などで、トップダウンで決めることが当たり前になるようになった。社会保障費の抑制も労働規制緩和も、ほとんど一部の専門家と財界人だけで決められ、重大な経済政策の案件が議員も国民も無関心のまま国会を通過するようになった。昔の自民党政治であれば、たとえば「こんな法案は地元に帰って顔向けできない」と反発する議員が必ずいて、バランスを維持する力学が働いたはずである。裁判員制度もそうだが、その賛否はともかくとして、このような司法制度の根幹を大きくひっくり返す重要な制度改革がほとんど大した議論も反発もなく国会を通過したというだけでも、もはや民主主義はほとんど機能していないと言ってよい。

別に貧困や格差、医療崩壊といった問題が噴出しているのは偶然ではない。そのような問題に真剣に応えて、丁寧に民意を汲み取るような政治では、「票が取れなくなった」のである。むしろメディアに積極的に出て、その時々で話題になっている問題で「根本的な改革」「既得権益の打破」を歯切れよく言い続けたほうが、明らかに少ない労力で票が得られるわけである。だから政治家が昔よりも「ひ弱」になっている印象は確かにある。この間自殺した民主党の元議員がそうだが、攻撃するときは猪突猛進の勢いがあるが、逆風を受けるといとも簡単に崩れ落ちてしまうのである。鈴木宗男の雑草ようなしぶとさとは、まさに対称的である。

ポピュリズム」という言葉はあまり使いたくないが、2000年代後半の政治力学は、明らかにポピュリズムの名にふさわしくなっている。90年代後半からそういう政治はあるにはあったが、その頃はもう少し相手が大きかったように思う。今は役所の一般職員や日教組といった、政治的にも経済的にもたいして力もない人たちを、「既得権者」として叱りとばして恥ずかしいとも思っていない政治家がいる。知事の座から追い出されても、弁護士やタレントして十分に「食っていける」(むしろ明らかに収入が増える)人がである。こういう人が熱狂的に支持されているような政治は、もはやポピュリズムと呼ぶしかないだろう。

これに比べて、意外にもあの麻生首相ポピュリズム的手法にあまり訴えていないというのは、個人的にはそれなりに評価しているのだが。